高松高等裁判所 昭和39年(ネ)305号 判決 1971年2月25日
控訴人 附帯被控訴人(被申請人) 丸住製紙株式会社
被控訴人 附帯控訴人(申請人) 山本保雄外二名
主文
一 原判決中、被控訴人高橋、同岡田の申請に関する部分を取消す。
二 右被控訴人両名の本件仮処分申請を却下する。
三 控訴人のその余の控訴を棄却する。
四 附帯控訴人らの各附帯控訴を棄却する。
五 訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人山本と控訴人との間に生じた分は控訴人の負担とし、被控訴人高橋、同岡田と控訴人との間にそれぞれ生じた分は、それぞれ右被控訴人らの負担とし、附帯控訴費用は、附帯控訴人らの負担とする。
事実
第一申立
控訴人兼附帯被控訴人代理人は、控訴につき、「原判決を取消す。被控訴人らの本件仮処分申請を却下する。申請費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする」との判決を求め、附帯控訴につき、「附帯控訴人らの各附帯控訴を棄却する」との判決を求めた。
被控訴人兼附帯控訴人ら代理人は、控訴につき、「本件控訴はこれを棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする」旨の判決を求め、附帯控訴につき、「原判決主文第二項を次のとおり変更する。附帯被控訴人は、(一)附帯控訴人山本に対し、別紙賃金表(一)番号23記載の金員を、同岡田に対し、別紙賃金表(二)番号23記載の金員を、同高橋に対し、別紙賃金表(三)番号23記載の金員を、(二)昭和四五年一月一日以降本案判決確定に至るまで、毎月二五日限り、附帯控訴人山本に対し、金四万七、一八七円、同岡田に対し、金四万三、五二九円、同高橋に対し、金四万六、一二〇円の各割合による金員を、各支払え」との判決を求めた(以下の記述においては、控訴人兼附帯被控訴人を単に控訴人と、被控訴人兼附帯控訴人を単に被控訴人と略称する)。
第二事実上の主張
(被控訴人らの本件仮処分申請理由)
一 控訴人(以下控訴会社、会社とも称する)は、川之江市川之江町井池八二六番地に本社と工場を、同市金生町下分四二九番地に工場を置き、従業員約六八〇名をもつて、新聞用紙、各種印刷用紙、包装用紙等の製造販売をしている資本金二億円の株式会社であり、被控訴人山本は昭和三一年五月、同高橋は昭和二七年一月、同岡田は昭和三四年四月いずれも控訴会社に雇傭され、後記解雇通告の頃においては、賃金として毎月二五日限り、被控訴人山本は月金二万〇、四〇七円、同高橋は月金一万九、三四〇円、同岡田は月金一万六、七四九円の支払を受けていたものである。
二 控訴人は、昭和三八年三月一一日、被控訴人山本に対し、控訴会社の就業規則第八二条第四項および第一九項に該当する事実があつたとして解雇の意思表示をなし、また、同月九日、被控訴人高橋および同岡田に対し、それぞれ就業規則第八二条第二〇項に該当する事実があつたとして、各解雇の意思表示をした。
三 しかしながら、右各意思表示は、就業規則所定の懲戒解雇事由に該当すべき事実がないのにかかわらずこれありとしてなされたものであつて、法律上無効である。
(一) 被控訴人山本の解雇理由について。
(1) 特定休日出勤拒否の件について。
控訴人は、被控訴人山本が昭和三七年八月一六日に出勤しなかつたことを職場規律違反行為として主張しているが、右の日に出勤を命じた業務命令は無効であり、従つて被控訴人はその業務命令に従う義務はなかつたものである。
控訴人と被控訴人山本の所属する全国紙パルプ産業労働組合連合会丸住製紙労働組合(以下単に組合、第一組合、旧労などとも略称する)との間において昭和三六年九月四日に締結された労働協約(甲第一〇号証の一)によれば、特定休日として、年末年始二日、五月一日のメーデー一日、盆一日、秋季大祭二日、組合大会春秋各一日の合計八日間の休日を設けることが協定されている。そして、右条項は、労働組合法第一六条により、個々の労働者の労働契約の内容となつているのである。しかも労働者は、その使用者に全人格的に支配されたり無限定的な労務に服する義務を負うものではなく、労働契約により時間的、空間的に限定された範囲において、労務に服する義務を負うにすぎない。してみると、被控訴人山本その他の組合員は、労働基準法第三六条に基づく協定において特定休日出勤の義務が明示されているか、或は、個々の場合について労働者との間の合意がない限り、特定休日に出勤する義務はないことになるのである。
ところで、控訴人と組合との間に昭和三六年九月五日付で成立した「時間外労働、休日労働に関する協定」(乙第五号証)によれば、特定休日の出勤については何らの規定も見当らないのである(規定されているのは、指定休日と第二、四、五火曜日の休日のみである)から、特定休日については労働基準法第三六条の協定が存在しないことになる。すると、控訴人の被控訴人山本らに対する特定休日の出勤の要請は、労働契約の申込みにほかならないのであり、被控訴人山本らにおいて右申込に応ずるや否やは自由であつたといわなければならない。従つて被控訴人山本の出勤拒否は業務命令違反とはならない。
かりに、特定休日は労働基準法第三六条の規律対象にならないとしても、既に特定休日が労働契約の内容となつている以上、個々の出勤について当該労働者の合意がなければ、使用者は業務命令をもつて特定休日の出勤を強制することはできないのである。就業規則は労働協約に違反しえないという法体系の論理的構造からしても、会社は一方的に特定休日の出勤を命ずることができなかつたものである。
かりに、前記「時間外労働、休日労働に関する協定」にいわゆる「所定休日」の中に特定休日も含まれており、特定休日の出勤について協定があると解しても、右協定によつてただちに、個々の労働者について休日出勤の義務が発生するものではなく、労働協約において具体的に個々の労働者の休日出勤の義務が明示されている場合に限つて出勤の義務が発生するものと解すべきところ、本件の場合、前記協定には何ら個々の労働者の出勤義務は明記されていないのである。
以上のとおりで、いずれにしても、被控訴人山本は特定休日たる昭和三七年八月一六日(旧盆)に出勤すべき義務はなかつたものであり、右休日に出勤しなかつたことを理由に、懲戒処分に付することは許されないものといわなくてはならない。
次に、特定休日の出勤、欠勤についての控訴会社の取扱の状況は次のとおりであつた。すなわち、会社の就業規則によると、欠勤は勤続手当、家族手当、特定休日手当、結婚休暇手当、忌引休暇手当、仏時休暇手当、精勤賞のほか、夏季一時金、年末一時金にも影響することになつているが、特定休日の欠勤は右の関係では欠勤扱とされないのが実情であつた。また、勤務者は或程度自由に遅刻し早退していたもので、一定の勤務時間の拘束はなく、遅刻、早退は就業規則上の遅刻、早退扱いとはならなかつた。更に、特定休日の出欠、遅刻、早退については、本人の意思が尊重され、特定休日の出勤の拒否の際格別の理由を告げることを必要としなかつた。
以上のような実情に照らすと、特定休日出勤の要求は、あくまでも会社の要請であり、一方的な業務命令ではなかつたといわなければならない。
更に、被控訴人山本が右特定休日に出勤しなかつたのには次のような事情があつた。
(イ) 昭和三六年の長期争議以降、会社と組合との間において、特定休日の出勤については、その都度会社が事前に文書又は口頭をもつて組合に出勤要請を行ない、組合がこれに協力して出勤させるという形式をとる旨の約束があつた。事実、本件以前の特定休日、たとえば、昭和三六年の秋季大祭、同年の年末と年始、昭和三七年のメーデーなどにおいては、会社から組合に対して、人員、部署等を明らかにして口頭(電話のこともある)又は文書で出勤要請をし、組合側もこれに協力してきていたのである。しかるに今回に限り、会社は慣行を無視し、組合に何ら連絡せず、直接組合員個々人に出勤を命じたので、被控訴人山本はじめ組合員は会社の約束無視の態度に反対し、組合の正式な意思決定に基づいて、全員出勤命令を拒否したのであり、会社の出勤要請には応ずる義務はないものと信じていたのである。
(ロ) 被控訴人山本らが特定休日の出勤を拒否した他の理由は、特定休日を設定した趣旨が、会社の操業を一切停止し全従業員が一斉に休日をとるにあつたところから、電気部従業員も当然に休日をとることができると考えたことにある。会社もこの特定休日の趣旨は了解していたのであり、それ故にこそ、一応の理由(ただ出勤できないという程度のもの)を述べた他の電気部員に対し欠勤を認めたのである。したがつて、特定休日の出勤要請に応ずるか否かは殆んど従業員の判断に任されているものと解され、会社としても従業員の意思を最大限に尊重すべきであり、一応の理由があれば、出勤を強制できないものであるともいえるのである。かりに被控訴人山本の出勤拒否が業務命令違反を構成するとしても、極めて軽微な違反にすぎないといわねばならない。
(ハ) 当時の電気部従業員は全員で一一名であり、主任を除く一〇名が組合員で、一〇名全部が出勤しなかつたのであるから、かりに保守作業に支障をきたしたとしても、被控訴人山本のみの責任ではない。また特定休日を利用しなければ保守作業ができないような会社の工場管理のあり方にも問題がある。
(ニ) 会社は昭和三六年の長期争議以後第二組合(丸住製紙新労働組合、「新労」とも呼ばれる)の育成強化を図り、事毎に第一組合の組合員を不利益扱いし、とくに被控訴人山本の勤務部署である電気部には第一組合員が多く、しかもその多数が中心的な活動家であつた関係上、その従業員に露骨な差別待遇を行ない、二交替制から三交替制への移行の時期を故意に遅らせる等の不当労働行為を行なつて来ていたので、特定休日の出勤の拒否は、右の不当な取扱いに対する抗議の意味もあつたのである。
(ホ) 組合は昭和三六年の争議の際、要求事項の一として一か月二日の一斉休日を掲げたが、この要求は会社によつて拒否せられ、争議後においても休日は全部指定休日制であつた。昭和三七年八月当時、会社は最も徹底した連続操業の体制をとつていたばかりでなく、特定休日出勤手当は大概基本給の半額であり、代休をとつた場合には一日分の賃金が控除されるので、実質上の利益は極めて僅かであつたという事情を考慮すれば、特定休日出勤を義務づけることは従業員に対する最も苛酷な労働条件の押しつけにほかならなかつたものである。
なお、同種の他の大部分の会社においては、特定休日の出勤については、その条件などにつき労働協約で協定化するか、あるいはその都度話合で処理していたのであつて、控訴会社における特定休日の出勤形態は、労働者に最も不利益なものであつたということができる。そして、本件の場合、労働者の最低限度の要求である組合に対する事前通告さえ無視されたものである。
(2) テニス観戦の件について。
次に控訴人は、被控訴人山本が昭和三七年九月二八日テニスを観戦していた事実を職場規律違反行為として主張しているが、その事情は次のとおりである。
当時の電気部には、普通勤務者と交替勤務者がおり、前者は昼勤務のみで(いわゆる昼専)、その勤務時間は午前七時三〇分より午後四時三〇分までであり、後者は二交替勤務で、昼勤の場合が午前七時から午後六時まで、夜勤の場合が午後六時から翌日の午前七時までであつた。そして交替勤務者のうち昼勤務の者は昼専者と組んで仕事をし、午後四時三〇分の昼専者の終業時間後は、故障などがあれば続けて修理等の仕事を行なうが、他に仕事のない場合は、変電所で交替時刻の午後六時までの間待機しているというのが当時の勤務の実態であつた。したがつて、この午後四時三〇分以後午後六時までの間は、急を要する修理等のない限り暇な時間であつたのである。それ故、昭和三六年の長期争議までは、変電所から出て工場内を巡回したり、運動や洗濯などをして過していたのであるが、争議後に至り、会社は工場内の巡回を中止させ、交替時刻までは「待機せよ」との指示をしたのである。従つて、午後四時三〇分から午後六時までは、形式的には勤務時間であるが実質的には待機時間であつたのである。
被控訴人山本は、交替勤務者のうちの昼勤務者であつたわけで、昼専者の帰つた後である午後五時過に、他の同僚と一緒に変電所から約二五米ないし三〇米離れた便所へ用便に行き、帰りがけに、便所のところの壁に立てかけてあつた小さい梯子の一段目に上り、塀の外側のテニスを二、三分見ていたのにすぎない。
控訴人は、変電所勤務の重要性につきいろいろと主張するけれども、一般的にいえば、変電所におけるメーターの監視では事故を防止できないのであつて、メーターに現われたときはすでに事故が発生しているのである。また、事故の発生と同時に過電流継電器などが自動的に操作し他工場への影響は機械的に防止される構造になつている。調整運転(川之江工場の機械の故障の際一定量の電力を消費するため金生工場のパルプ、グラインダーを始動させることをいう)の問題にしても小さい事故の場合に調整運転をするようなことはないし、長時間川之江工場の機械を停止させる場合等は必らず事前の連絡があつたのであつて、控訴人の主張するような重大な事態の発生する危険は全くなかつたのである。
従つて、被控訴人山本の右の行為は、就業時間中の職場離脱として仰々しくとりあげる程のものでなく、始末書の提出を求めなければならぬ程の重大な規律違反ではない。
なお、一緒にテニスを見ていた大西英司も始末書を提出していない(むしろ控訴会社は同人に対しては始末書の提出を求めたことはなかつたのであるが、昭和四〇年五月三日に至り、被控訴人山本に対する始末書提出要求の正当性を裏づける資料とするため、計画的に文書で始末書の提出を要求した)。
(3) 夜勤中横臥睡眠の件について。
次に控訴人は、被控訴人山本が昭和三八年三月一〇日の夜勤中に仮眠したことを職場規律違反行為として主張しているが、その事情は次のとおりである。
電気部の夜勤者の勤務の内容は、変電所において、計器の示すところを一時間々隔で記録することと、故障があればその箇所の修理をするということだけであつて、昼勤者のように一般的な電気工事(保守作業)を行なうなどということはないのである。従つて、電気部の夜勤者は従来から、時間中に本を読み、或は身体を横にして休めることもあつたのである。前にも述べたように、変電所におけるメーターの監視のみでは事故の発生を未然に防止することはできず、現場からの故障の連絡は、電話によるか、又は現場の人が直接知らせに来るのであつて、それに応じて修理をすれば、夜勤者としての任務は充分に果しうるのである。
当夜被控訴人山本が控訴人主張のように四時間も睡眠をとつたという事実は全くなく、極めて短時間の仮眠をとつたのにすぎない。そして守衛が変電所のドアを開けるやいなや直ちに起き上つたのであつて、到底睡眠と言えるほどのものではない。しかも当夜のメーターの記録を怠つたという事実もない。
後にも述べるように、当時電気部のみが会社の故意によつて二交替制のまま放置されていたのであり、夜勤者は午後六時から翌朝午前七時まで、拘束一三時間、実働一二時間という長時間の勤務を強いられていたのであつて、被控訴人山本が疲労のあまり僅かの仮眠をとつたとしても、まことに無理からぬところがある。また、当夜は夜勤者の一人が欠勤して話相手がいなかつたこと、三交替制をとる他の職場においても交替で身体を横にして休むことが事実上行なわれており、会社がこれを理由に処罰した事例がないこと、他の会社においても夜勤者の仮眠は放置されており、一部の会社においては仮眠が労使間の協定により制度化されていたこと等を考慮すれば、本件は事案としては極めて軽微なもので、到底職場の秩序を紊したなどというに値するものではない。
(4) 始末書の提出拒否について。
控訴人は、被控訴人山本が始末書の提出を拒否したことをもつて上司の指示命令に反抗したとか、職場の秩序を乱したとか、訓戒に応じなかつたとか主張しているが、被控訴人山本には始末書提出の義務がなかつたものである。
始末書の形態には、事実のてん末の報告書に過ぎないものと、何らかの形で自己の非を謝る旨の意思表示が含まれているもの、すなわち詫状文の二つの種類がある。ところで、始末書が謝罪の意思表示を含むものである限り、不提出の場合に何らかの制裁を加え、強制できるものであるか極めて疑問の存するところである。何故ならば、雇傭契約は労働力の売買であつて、その労働者の意思、感情までもその取引の対象としているのではない。労働者は、その雇用されている企業に対し、債務の本旨に従つた労務の提供義務を負うているに止まり、雇傭契約に基づく拘束を超えて全人格的服従義務、いわば封建制下の忠誠義務を負つているわけではないからである。従つて、使用者は労働者に対して始末書の提出を強制したり、始末書の不提出をもつて不利益な処分の資料とすることは許されず、また労働者には始末書提出の義務はないものと解すべきである。控訴人が被控訴人山本に対して提出を求めた始末書が謝罪の意思表示を含むものであることは、控訴人が他の従業員に対して提出させている始末書(乙第六号証の一ないし一〇参照)を見れば明らかである。
そればかりではなく、始末書提出の命令は就業規則第八二条第四号の「業務上の指示命令」に該当しない。
「業務上の指示命令」とはいわゆる業務命令を指すものと思われるが、業務命令は、労働者が労働契約により使用者の指揮命令に服して労働力を提供する旨約束をしたことにその根拠があるのであるから、業務命令として、労働者を拘束し得べき範囲は、労働契約に従つて労働力を提供する過程についての事項に限定される。始末書の提出を求めるが如きは何ら労働力の提供に関係のない事柄であり、業務上の指示命令ではないから、始末書の不提出を以て懲戒処分の理由とすることはできない。
(5) 勤務態度等について。
被控訴人山本の勤務態度が悪かつたとか、非協力的であつたとかの事実は全くない。むしろ同人は、人一倍厳格な性格で勤務態度は真面目であり、副主任に任命されたのも電気部従業員の中では最年少であつた程で、勤務成績は極めて良好であつた。控訴人は、被控訴人山本が上司に対して返事をしなかつたなどと主張しているが、かりにそのようなことがあつたとしても、その原因は、昭和三六年の争議の前後を通じて会社のとつた反組合的態度が極めて露骨であり、とくに電気部の組合員に対して報復的措置をもつて臨んできたためである。被控訴人山本の態度は、会社側の反組合的態度をぬきにしては到底判断できぬところのものである。
会社が昭和三八年三月九日始末書の提出を求めてきた真意は、同被控訴人に反省を求めることにあつたのではなく、同人を解雇する口実を設けるため(始末書の不提出を予期して)であつた。このことは、テニス観戦の件以来長期間一度も始末書の提出を求めたことのないこと、特定休日の出勤拒否については勿論テニス観戦についても該当者は被控訴人山本のみでないのに他の者に対しては始末書の提出を求めていないこと、右三月九日には被控訴人高橋、同岡田に対し解雇の通告をしていること等の事情に照して明らかである。
会社が被控訴人山本をとくに狙いうちしたとの点は、控訴人が原審において全く主張も疎明もしていなかつた勤務時間中のビラ配布、同僚のタイムカードの打刻等の事実(当時においては控訴人はとくに取上げる程重大な問題ではないと考えていたと認められる)をことさらに当審でとりあげてきた態度に照しても、首肯できるところである。
(二) 被控訴人高橋の解雇理由について。
(1) 被控訴人高橋が控訴人主張のような暴行をした事実はない。同人は確かに他の多数の組合員と一緒になつて自動車をとりかこみ、あるいは自動車を二、三回ゆさぶる等の行為をしたかも知れないが、これはあくまでも他の組合員と群衆心理にかられてやつたというに止まる。また、同人の投げた石がかりに高橋山林課長に当つたとしても、同人としては、橋の上から川に何気なしに投げていたものである。高橋課長に当てるべくして故意に投げつけたというような行為ではない。
控訴人は、高橋課長らが正門前へ自動車で乗りつけた目的その他当夜の状況について詳しく主張し、そのため被控訴人高橋の行為が悪質であるかのように述べているけれども、かりにその主張のような事実があつたとしても、それらは被控訴人高橋には関係のない事実であり、少くとも同被控訴人の責に帰せられるべき事由ではないから、控訴人の主張は的外れである。
(2) かにに被控訴人高橋に何らかの暴力行為があつたとしても、後にも述べるように、会社は当時の争議に際し、数々の不当労働行為を行ない、高橋山林課長はとくに職制の先頭に立つて組合員の切崩しを図り、組合員の家庭訪問を公然と行なうなど、組合の団結権を無視した行為をくりかえしていたのであつて、組合員らが同課長に反感を抱くのも無理からぬところであつた。
(3) 被控訴人高橋の受けた罰金刑は四千円という金額であり、事案として極めて軽微である。元来懲戒は企業の秩序維持の目的をもつて、且つその必要最少限度においてのみ許されるものと解すべきであるから、企業外の行為は企業秩序違反として評価されない限り、懲戒事由となり得ないのである。被控訴人高橋が刑罰を受けた行為は、会社外における行為であり、しかも争議中という異常な事態のもとで発生したものであるから、会社の企業秩序を紊乱するものでなく、平常時における労使間の正常な信頼関係を破綻させてしまうほどのものではない。
(4) 被控訴人高橋が争議後従来にもまして勤務態度が悪くなつたというような事実は全くない。同人は、むしろ真面目な勤務態度であり、同僚からの信頼も厚く、職場の責任者が不在の場合には同人が責任者の職務を代行してきたほどである。
(三) 被控訴人岡田の解雇理由について。
(1) 被控訴人岡田が控訴人主張のような暴行をした事実はない。同人は子供の肩を押して座らせたという程度のもので殴つたものではないのである。また子供が星川課長の次男であるが故に暴行を加えたというようなことは絶対にない。
(2) 同人の行為は刑事的にみて極めて軽微なもので、被控訴人高橋の場合と同様、企業秩序を紊したとか、平常時における労使の信頼関係を破綻せしめたというに値しないものである。
(3) 控訴人は、被控訴人岡田の平素の勤務態度が良くなく、上司から指示命令を受けても協力的に仕事をしようとせず、その動作も極めて緩慢且つ非協力的であつたと主張するが、そのような事実は全くない。むしろ、同人の勤務態度は極めて真面目であり、それ故に同人の職場も会社においては特に重要な第六号抄紙機の担当とされていたのである。
(四) 以上の次第であつて、控訴人は、被控訴人らに懲戒解雇事由に該当する事実がないのにこれありとし、あるいは、就業規則の解釈を誤まり、懲戒解雇に付すべき場合でないのにその場合であると解し、本件処分に及んだものであつて、その解雇の意思表示は効力を生じない。
四 また、本件解雇の意思表示は、被控訴人らが第一組合の組合員であること、または右組合の正当な活動をしたことの故をもつてなされたものであり、更にまた、右組合の運営に対する支配介入としてなされたものであるから、労働組合法第七条第一号本文、第三号本文に該当する不当労働行為であつて、無効である。
本件解雇に当つての控訴人の不当労働行為意思は、以下の諸事実から明白である。
(一) 被控訴人らの組合活動について。
(1) 被控訴人山本は川之江工場に組合が結成せられると同時に組合に加入し、青年婦人部副部長となり、争議中は主婦会の結成に力をつくし、オルグ或いは行動隊員として活動し、争議終結後も引き続き執行委員に選任され、昭和三七年九月以降は情宣部長として、組合ニユース、新聞、伝単の発行、配布の責任者として、組合員の意識昂揚のための活動を活溌に行なつてきた。また、同人は団体交渉の席に出て、後記の一時金差別問題や電気部の三交替制への移行の時期等について活溌な発言をするなどし、つねづね会社から注目されていた。控訴会社がことさらに同被控訴人を狙いうちしたと認められることは、さきに述べたとおりである。
(2) 被控訴人高橋は、金生工場従業員のみで組織していた組合当時からの組合員で争議中はピケ要員として活動した。また、それ以前の昭和三〇年頃、金生工場の皮剥工全員解雇および二名に対する支配介入の不当労働行為救済事件が審理された際、地労委に証人として出頭したことなどもあり、そのため本工登格を二、三回故意に延期されたことがあつた。
(3) 被控訴人岡田は、川之江工場に組合が結成せられると同時に組合に加入し、同人の所属する六号機抄紙部は組合結成当初は三十八、九名が組合員であつたのに会社からの切崩しの結果争議終結時には九名まで減少したのに、最後まで組合員としてふみ止まつて活動した。また、同人は争議中望月副工場長から、「君も工場に入つて会社に協力してくれたら事件の方は私が骨を折つてみるから」と言われたが、それを拒否し、この件につき不当な支配介入であるとして地労委に救済申立をしたため、副工場長から、「恩を仇で返した」と恨まれていた。
(二) 今回の処分は従前の処分に比して不合理且つ苛酷である。
第二組合員ないし非組合員で、暴行、傷害その他の罪で罰金刑を受けながら、何らの処分を受けないか、または謹慎程度で済まされている事例が多々存し、本件の場合と均衡を失している。
被控訴人高橋、同岡田の処分について、控訴会社の代表者は昭和三七年九月三日の第一組合との交渉の席上、「情状酌量ということもあるし、会社としては本人の今後の作業態度をみる」と言い、同年一〇月一五日にも同趣旨のことを繰り返しのべていた事実があり、また、前記の望月副工場長の被控訴人岡田に対する発言も巧妙な組合脱退工作であつたと考えられるのである。同人らが結局第一組合を脱退しなかつたため解雇を強行したものといわざるを得ない。
控訴人主張のように、第一組合所属の上田幾喜が懲戒解雇されたことは認める。しかし、同人は当時退職の自発的意思があり解雇を争わなかつたものであつて、本件の前例となるものではない。
被控訴人高橋が、本件処分前会社に対し第一組合脱退の通知をしたことは認める。しかし、同人から組合に対して脱退の手続がなされたことはなく、従つて同人は解雇当時依然として第一組合員であつた。また、同人に殺人未遂の前科があることは会社は解雇処分当時知らなかつたのであり(もし会社が右前科の点ないしは経歴詐称の点を考慮して解雇したのであれば、それを解雇通知書に掲記している筈である)、解雇が不当労働行為意思によるものかどうかの判断は、処分当時を基準にしてなすべきものであるから、右の点は本件解雇の効力判断に際し除外されるべきである。
(三) 昭和三六年の争議以前の控訴人の反組合的態度について。
(1) 控訴会社の従業員は昭和二一年四月丸住製紙労働組合を結成し、全従業員一八〇ないし二〇〇名中、事務員を除く殆んどの従業員が加入した。当時は川之江工場はまだ操業を開始しておらず、金生工場の従業員のみの組合であつた。
ところで会社は、早くも昭和二八ないし二九年頃、当時の組合役員七名全員を解雇したことがある。また、右組合は、昭和三〇年一月、賃上げ、年末一時金支給およびユニオンシヨツプ協定締結の要求を掲げ、一九日間に及ぶストライキを実施したことがあるが、その際も会社は一部従業員の組合加入を妨害したことがあり、地労委の問題となつたこともある。組合は昭和二九年頃から一貫してユニオンシヨツプ協定の締結を求めてきているのであるが、会社は終始これを拒否し続けたものであり、会社はこの態度を昭和三六年の争議中および争議後も頑迷に固持していることは注目に値するところである。
(2) 会社は昭和二九年四月、旧丸井製紙の従業員百四、五十名を雇傭し、川之江工場の操業を開始した。丸井製紙は倒産当時二百四、五十名以上の従業員がおり、労働組合があつたが、会社はその従業員を雇入れるに際し、組合の活動家を排除し、その後においては、川之江工場の従業員が労働組合を結成し或は丸住製紙労働組合に加入することを妨害してきた。前述のように、会社は組合の毎年の要求であるユニオンシヨツプ協定の締結を拒否し続けたのであるが、その大きな目的は川之江工場従業員の組織化の阻止にあつた。会社は従業員の中に組合結成の動きが現われると、その該当者をすぐ工務室へ呼びつけて注意を与え、その動きを胎動のうちにつぶし、或は該当者に口実を設けて退職させる等するので、川之江工場は昭和三六年四月の争議開始時まで組織化することができなかつた。
(3) 金生工場の従業員数は昭和二九年当時から昭和三六年当時まで常に二〇〇名前後であつたが、川之江工場の従業員は逐年増加し、昭和三六年当時約五〇〇名となつた。生産量の面からみると、昭和三一年に川之江工場において新聞紙の生産を開始して以来、重点は川之江工場に移り、昭和三六年には全生産量の七〇パーセントを同工場が占めた。しかし、同工場の従業員の組織化ができなかつたため、労働組合の力は弱く、控訴会社の労働条件は他の会社に比し、劣悪なものであつた。次にその主なるものを挙示する。
(イ) 連続操業体制とそれに伴う労働条件について。
会社は昭和三一年一一月から連続操業の体制に移行したが、それに伴う諸条件は、特定休日を除く完全な連続操業、休日はすべて指定休日制、機械が停止する休日(特定休日)は年間を通して六日間、昼夜二交替制、先番が午前七時から午後六時まで、後番が午後六時から午前七時まで、拘束時間は一一時間或は一三時間(内休憩時間は各一時間)、一週間毎の先番、後番の交替日には各六時間宛の早出、残業が加わる、いわゆる常昼者は午前七時から午後六時までの拘束一一時間、実働一〇時間勤務で連操手当の支給なし、というものであつた。その連操方式、休日のとり方、連操手当、二交替制、指定休日出勤手当、特定休日の日数、特定休日出勤手当等の点において、他社に比し極めて劣悪な条件であつた(詳細は甲第八一、第八二、第八四号証、乙第四四号証の一〇、一一等参照)。
(ロ) 賃金について。
昭和三六年当時の賃金体系をみると、日給制であつて基準内賃金と基準外賃金に分けられ、基準内賃金はさらに基本給と臨時給に分けられる。臨時給は退職金の算定の基礎額から除外され、基準外賃金のうち家族手当は一か月二三日以上の、また特定休日手当は一か月二〇日以上の各現実出勤者のみに支給されるという罰金賃金(又は刺戟賃金)となつており、昇給については一定の基準がなく、会社側の意思によつて自由に操作される仕組となつている。
昭和三六年三、四月段階における控訴会社金生工場の男子平均の基準内賃金は一万一、九五〇円、基準外賃金は五、六七一円であつた(川之江工場はもつと低い)が、これは他社と全く比較にならない低賃金であつた(甲第一五、第二二、第八〇、第八一、第八五、第一〇五号証等参照)。
(ハ) 臨時工について。
臨時工から本工への登格については、争議前においては、昭和二八年八月一四日付仮協定書(乙第二六号証)なるものがあつたが、この仮協定書は、昭和二八年度の日雇、臨時工の本工登格についてのみの協定であつたばかりでなく、その三項の但書は、会社がその判断で自由に本工に登格させたりさせなかつたりすることができることを意味するものであつた。すなわち、右協定書は何ら客観的な登格基準を設定したものではなく、会社側を拘束する効力がなかつたもので、それ故にこそ組合は毎年のごとく日雇、臨時工の本工登格を要求し、労働協約を締結することによつて一定の人員の登格をかちとつてきたのである。
会社側の証人のいうように、川之江工場の場合、学卒者については試傭工一年で本工に、中途採用者は臨時工一年で試傭工に、試傭工一年で本工に、それぞれ登格していたとすれば、昭和三六年三月末の時点で一年以上を経過した臨時工はあり得ない筈であるが、昭和三六年九月争議後会社側から登格資格者として発表した者の中に、昭和三六年三月二五日現在で満二年を経過した臨時工が二五名(内金生工場九名)がおり、また同年九月二五日現在で満二年を経過した臨時工が一九名いた。したがつて、争議前においては川之江工場において、中途採用者については二年以上臨時工のまま(試傭工にも登格されないで)放置されていた者のあることが明らかである。結局、控訴会社には昭和三六年の争議前の時点においては、日雇、臨時工(この内試傭工については就業規則上、試傭工期間を一年とする旨の規定があつた)は、川之江工場においても、約一六〇名いたのであり、これらの臨時工については、金生工場は別とし川之江工場においてはその登格の基準は一切なく、会社の一方的な判断で勝手に行なわれていたものである。
(四) 昭和三六年の長期争議について。
(1) 被控訴人らの所属する丸住製紙労働組合(争議中に上部団体である全国紙パルプ産業労働組合連合会に加盟した)は、昭和三六年二月二一日会社に対し、賃上日額九八円の引き上げ、臨時工の全員登格、定年制の五年延長(五八才)、乗務員手当五〇〇円支給の四項目の要求を提出した。前述のように、当時組合は金生工場に勤務する従業員のみをもつて組織されていたもので、川之江工場の従業員が組織化されていないことは組合にとつて極めて不利であり、その組織化は急務とされていた。
会社は、組合の要求に対して、三交替制の実施を前提とした同時解決の方針を出してきた。組合は職場大会を開いて討議の上、従前の賃金額をそのままにして労働時間の短縮のみで解決しようとするのが会社の方針であると判断し、三交替制への移行は賃上要求とは切り離して解決すべきであるとして会社の提案を拒否した。これに対し会社は四月七日に至り、賃上要求に対する第一回の有額回答として、日額五一円の回答をしてきた。
会社はその後の団体交渉においても五一円回答を固執したので、組合は自主交渉による解決は不可能と判断し、同月一六日には、愛媛県地方労働委員会に対し労使双方から斡旋申請することを提案したが会社はこの提案を拒否した。
この頃会社側の交渉要員であつた星川正延専務は組合に対し「ストライキをやるならやつてみろ、会社も徹底的に対決する」との発言をなし、また、四月一五日頃からは金生工場の周囲のブロツク壁の上に有刺鉄線をはりめぐらし、工場内の各通路は全部厚い板をもつて遮断して早くもロツクアウト、籠城生産の準備をし、原料等についてもその仕込みを一月分宛行ない、組合が何時ストライキに入つても原料の腐敗による損失を避けることのできる態勢をとつた。会社は、昭和三六年春闘から会社側の団交要員を増員し(以前は井川工場長、石川工場次長外職員一名のスタツフであつたのに、春闘時から常務、工場長、総務部長、労務課長等課長クラス数名の合計一〇名位となつた)、労務担当重役に星川正延を就任させたもので、これらの事情を考慮すると、会社は組合がストライキに突入する以前の段階から徹底的対決の構えであつたことが明らかである。
ここにおいて組合は、事態の平和的解決の途は全くとざされたものと判断し、翌一七日実力行使に入ることを決定し、スト権留保通告を行なつた。
(2) 組合は、遂に四月二一日午後四時から全面無期限ストライキに突入したが、それと同時に川之江工場の組織化を開始し、同日の午後一〇時頃には川之江工場の従業員の殆んどのものが職場を放棄し、ストライキに参加した。ただし、川之江工場の六号抄紙機(当時の控訴会社における最新型の機械であり、会社の新聞紙生産の殆んどはこれによつて行なわれていた)の職場のみはそのまま仕事を続けていた。
ところで組合は、二一日のストライキ突入に先立ち、同月二〇日、ユニオンシヨツプ協定の締結を含む八項目の要求を追加提出した。四月一八、一九の両日、川之江工場の従業員のうち活動家を集めて同工場の従業員の要求を討議、確認し、二〇日の段階では非公式ながら川之江工場の従業員中約一八〇名が加入していたので、右要求を追加したものである。同月二五日組合の臨時大会(組合の結成大会)が開催され、右追加要求が確認された。その大会当時の組合員数は四一七名で、臨時給の全額基本給繰り入れ、皮剥工の賃金引き上げの要求も同時に確認された。
(3) 組合はストライキ突入後、直ちに団体交渉の申入をしたが、会社は「団交に応じられる体制になつていないから」として団交を拒否し続けるので、組合は五月一〇日「団交拒否の理由を明らかにするための団交」なるものの申入をしたほどであるが、会社は、団交開催の条件として、四月二〇日付の追加要求の撤回と組合の上部団体との交渉の拒否(丸住製紙労働組合のみとの交渉ならば応ずるという態度)を固執し、その間経済的なバツクである丸紅飯田などの支援を受けて争議長期化のための体制を整えた。
そして、五月一四日に至り、漸く争議突入後第一回の団体交渉が持たれたのであるが、その日の交渉においても会社は、丸住製紙労働組合とのみの自主交渉に応ずる、賃上げについてのみ話し合い、外の要求項目については生産性協議会を開いて協議してゆくとの態度を固執したため、事態は少しも進展しなかつた。
これより先である四月二二日、会社は松山地方裁判所西条支部に対して、製品、材料などの搬出妨害禁止の仮処分命令の申請をしていた(組合はこの事実を五月一五日の団体交渉の際初めて知つたが、このことが団交決裂の大きな原因となつた)が、その第一回口頭弁論期日の前日である五月二三日、あたかも組合側のストライキが違法であるが如き事実を作りあげるため、突如組合側に対してロツクアウトの通告をなし、組合側のピケラインを強行突破し、あるいは夜間塀をのり越えて、川之江工場内に非組合員約二〇名および臨時採用者約二〇名を入場させ、一部の操業を開始し、無用の混乱を起し、右強行突破に際して高橋厚美山林課長はその先頭に立つて指導した。
その後会社は組合側の団交要求を拒否し続けると共に、一方では空から食糧を投下して一部非組合員による籠城生産を継続し、他方では、組合員の自宅を訪問する等して、組合切崩しの工作を行なつた。組合は、会社の団交拒否と組合切崩しを不当労働行為であるとして、六月六日地労委に対して救済命令の申立を行なつた。
六月一六日漸く第三回の団体交渉が行なわれたが、会社側の態度は従前と全く変らず、翌一七日、僅かに賃上要求について従前の日額五一円に九円をプラスした六〇円の回答をしたが、ユニオンシヨツプ協定の締結、臨時工の全員本工登格、月二回の一斉休日の要求などについては、相変らず生産再開後に協議するというのみで何らの譲歩をしなかつた。
七月一二日、会社は、「スト解決が長引くのは全部組合側の責任だ。会社側が大幅な譲歩をしているのにもかかわらず組合側は少しも接近しようとしない」などと記載したビラを、三島、川之江の両市内に配布するなどして、組合側に責任をなすりつけ、同月一四日職権斡旋を開始した地労委に対しても、一旦はこれを了解しながら、一五日には「地労委斡旋にいたるまでに組合は首脳会議を無視してペテンにかけた」と言張つて斡旋を拒否し、強硬な態度に出た。
(4) 会社が右のような強硬な態度に出るに至つたのは故なしとしないのであつて、これより先である七月一〇日過から、ひそかに第二組合の結成が企図されていたのである。すなわち、丸住製紙新労働組合(第二組合)の現委員長である星川成行は、同月一四日、会社の星川正延常務と会つて打ち合せを行ない、同日川之江市内のお寺に一四名の組合員を集め、第一組合の闘争方針を非難し、別行動をとることを確認し合つた。同人らの主張は、従前よりの要求中ユニオンシヨツプ協定締結と月二日の一斉休日の要求を直ちに取り下げること、団交は上部団体を加えずに丸住労組のみで進める、というもので、当時の会社の主張と全く同一のものであつた。同月一七日右星川成行らは、第一組合長黒田正明に対して直ちに組合大会を開くことを要求し、翌一八日には前記会合に参加した一四名の組合脱退届を提出し、即日星川常務と会見して脱退の旨を伝えた。第二組合の結成大会は同月一七日に開かれる予定であつたが、その会場として金生工場を提供することが予定されていた。また会社は、あたかも第二組合の結成と呼応するが如く、同月一七日金生工場へ食糧の搬入を行ない、同月一九日には操業を一部開始した(それまでは籠城生産は川之江工場のみで行なわれていた)。このような経過からみて、第二組合の結成は会社の援助のもとに、第一組合を弱体化する意図のもとに行なわれたことが明白である。
かくして結成された第二組合は、同月二三日、一回の交渉で妥結した。妥結の条件は、賃上げは日額六〇円、定年制は五か月間延長する、臨時工の本工登用は、基準を明確にし、五五名を下らない範囲で行なう、というのが主なもので、従前の交渉で最も問題のあつたユニオンシヨツプ協定の締結、配置転換についての事前協議制、月二回の一斉休日などの要求については、撤回するか又は会社の主張を全面的に認めるというものであつた。そして、その後は第二組合は会社と一体となつて第一組合の争議を誹謗し、第一組合員に心理的な動揺を与え、第二組合への加入および籠城生産への参加を呼びかけた。
七月一九日、第一組合より脱落した組合員が金生工場の壁をのり越えて中へ入ろうとしたので、第一組合員がこれを阻止しようとして工場内に入つたところ、会社はこれを住居侵入であるとして二四名の組合員を三島警察署へ告訴し、八月一日には、会社は警察官三〇〇名の支援を受け、工場長井川康の先導のもとに第一組合のピケラインを強行突破し、二四台の大型トラツクを工場内に乗り入れて製品の搬出を強行しようとした。
(5) その間会社は団体交渉により解決しようとする態度は全くなく、八月一〇日には川之江市の市議会、市商工会議所、市長の三者から斡旋の申入があつてもなお強硬な態度を持していたのであるが、地労委が組合側からの申請にもとづき同月一七日より斡旋作業を開始するに及び、漸く斡旋に応じるようになり、その後も種々難航したが、結局八月二八日地労委の斡旋案が提示され、右斡旋案による条件で九月四日最終的な妥結を見るに至つたものである。
ちなみに、ストライキ突入当時の第一組合の人員は五八六名であつたが、ストライキ中に一〇九名が脱退して争議終結時には四七七名に減少し、第二組合員は三五名であつた。
(6) 以上に述べた争議の原因なり経過なりをみれば、争議が長期化し、若干の混乱が起つた責任が一に会社側にあることは明らかであり、控訴会社の反組合的態度は明瞭である。
(五) 争議後における控訴人の不当労働行為について。
(1) 臨時工の本工登格問題について。
争議解決時点において、はじめて登格基準が労働協約により設定された。斡旋事項に関する協定書七項(甲第一〇号証の三)、斡旋事項に関する協定書附属覚書三、四項(甲第一〇号証の六)がそれである。
(イ) 昭和三六年九月ないし一〇月の登格について。
いよいよ争議後最初の登格が行なわれることになつたが、昭和三六年三月二五日で満二年以上を経過した臨時工の本工登格は、試傭工の本工登格と同様の方法、すなわち、斡旋事項に関する協定書七項の(イ)に規定する「選衡」によつて行なわれるべく、また右にいわゆる「選衡」とは、斡旋事項に関する協定書附属覚書三項の(イ)に定義づけられているとおり、「特別の事情のない限り当然本工に登格することをいう」のであるのに、会社は学科試験を行なう旨通告してきた。そこで、組合は協定違反であるとして会社に抗議すると共に、該当者に対しては受験拒否を指示した。
これに対し会社は、九月一六日第二組合員非組合員だけを対象として「昭和三六年三月二五日で満二年以上を経過した臨時工」の本工登格試験および「同時点で満一年以上を経過した臨時工」の試傭工登格試験を実施したが、後者の臨時工の中から、約一〇名程度のものを特別選抜と称して本工に登格せしめた。かかる特別選抜は前記協定に違反するものであり、会社は第一組合員の受験者が一人もいなかつたことを奇貨として、労働協約に違反してまで第二組合員、非組合員を優遇したのである。
(ロ) 同年一一月二三日実施の登格試験について。
同年一〇月三日付で組合と会社間に覚書(甲第三一号証)が作成され、右覚書に基づいて登格試験が実施されることになつたが、その試験において、またまた第一組合員が差別された疑いがある。
第一組合員の内、上田秀子、星川シゲ子、白石和子の三名は、昭和三六年九月二五日現在二年または二年以上の臨時工で、試傭工試験に合格すれば同年九月度(一〇月度か)から本工になることができ、また村上喜四郎、石川専二郎、土田武人の三名は同時点において一年または一年以上の臨時工で、試傭工試験に合格すれば試傭工になることができるので、同年一一月二三日実施の登格試験を受験したところ、同人らはいずれも学科試験に合格点をとりながら面接によつて不合格になつたのである。控訴会社の行なう試傭工試験は学科試験と面接試験よりなるが、学科試験一点、面接試験九点、計一〇点の配分で、面接に極度の重点をおき、面接の機会に第一組合員とその他の者とを差別することのできる仕組にしている。同試験において学科試験が不合格(学科試験は三〇〇点満点で一三〇点以上が合格点)となつた岡本サカエ、星川千恵子、石川彰子の三名はその後第一組合を脱退したため、昭和三七年三月に実施された試傭工試験に合格した。
(ハ) 昭和三七年四月度以降の本工登格試験で面接を実施する旨の通知について。
控訴会社は、昭和三七年三月一七日、同年四月度よりの本工登格試験において面接を実施する旨通告してきたが、これは斡旋事項に関する協定書七項(イ)、同協定書附属覚書三項を無視したものである。これ以前の試傭工の本工登格の際面接を実施したことはなく、面接の実施はその機会を利用して第一組合の組合員に対し何らかの心理的圧迫を加えようとしたものである。
(2) 電気部の三交替制移行問題について。
昭和三七年の春の賃上の際、三交替制実施を前提とした条件で交渉が妥結したが、会社は三交替制の一斉実施のためには約五〇名の増員が必要であり、一挙に五〇名を増やすことは不可能であるとして、段階的実施案を提案してきた。第一組合は強硬に一斉実施の主張をしたが、結局会社と第二組合が同調し、昭和三七年七月から川之江工場の六号抄紙とGPについて三交替制を実施するに至つたが、三交替部署と二交替部署の賃金格差をせず、定員も充分補充しないまま強行してしまつたというのが実情である。そして、電気部については、三交替制への移行の時期を一番最後である昭和三八年四月度にする旨提案してきた。しかし第一組合は、電気部についても他の部署と共に一斉に実施することを要求し、他の部署に電気科出身者が二名(GPの本田と計器の石川)いるので、これを配転することによつて人員を確保できる旨、また段階実施の場合も全従業員について新日給を採用すべきである旨主張した。しかし、会社はこの要求をも拒否し、昭和三七年七月段階で別の提案、すなわち、交替勤務者の定員を川之江、金生とも一直一名の計六名とし、川之江に欠員の生じた場合は金生から派遣し、金生欠員の場合は補充しない旨の便法を提案してきた。組合は、電気部の仕事は高圧電流を扱い高所で作業するなど危険度が高いから川之江工場の場合一直一名ではむずかしいとし右便法を拒否したところ、会社は今度は第二組合と一方的に協議し、二交替制部署に対し月一、〇〇〇円の手当を支給する旨の取極(第一組合の要求では月七、〇〇〇円位の金額となる)をし、これを第一組合へ押しつけてきたのである。その間組合は、川之江一直二名は崩せないが金生は一直抜いて移行してもよいとまで譲つたが、会社は、金生についても一直抜くことはできないとして、組合の言分を容れなかつた。
しかし、会社の右主張には合理的な根拠はない。何となれば、組合側が配転するよう要求したGPの本田は同年一一月に電気部へ配転しているし、昭和三八年四月の段階では、学卒者を入れることなしに、川之江一直二名の六名、常昼者二名、金生常昼者一名の合計一〇名で三交替制に移行しているからである。前述のように、当時電気部の従業員は九名で内主任を除く全員が第一組合員であり、その組合活動は会社側から注目されていたのであつて、電気部の三交替制移行が最後になつたのは第一組合員に対するいやがらせないしは報復であるとしか考えられない。
(3) 賃金、一時金支給の差別について。
昭和三六年夏季一時金の配分は、第一組合平均が二万七、〇〇〇円、第二組合平均が三万〇、三三八円、非組合平均が三万六、九八二円(いずれも本工)であり、同年の年末一時金についても同様の差別があつた。控訴人はノーワーク・ノーペイの原則の適用であるというが、「斡旋事項に関する協定書」(乙一五号証の一)、「斡旋案に関する質問について」(同第四二号証の一)、「斡旋案中質問に対する回答について」(同号証の二)なる各文書によれば、スト中の日数は一時金の算定の基礎(対象期間)にしない趣旨が明瞭であり、右協約は、労働組合法第一七条の労働協約の一般的拘束力により、第二組合員ないし非組合員にも及ぶから、控訴人の主張は根拠がない。
また、控訴人は、昭和三七年度年末一時金支給の際、電気部従業員たる第一組合員に対し、非組合員ないし第二組合員に比し、三、〇〇〇円ないし四、〇〇〇円少ない金額を支給している。
次に控訴会社は、昭和三九年度までは、賃上、一時金共、その支給源資を組合別とする制度(組合別に一人平均金額に組合員数を乗じた金額を分配する)を採つていたが、昭和四〇年度の賃上から、支給源資を全従業員を対象とする制度に切りかえた。そしてこの源資一本制の採用と同時に、第一組合員を第二組合員ないし非組合員に比し不利益に取扱うに至つた。昭和四〇年度の賃上額は、全従業員(本工)平均が三、二〇〇円、第一組合平均が三、〇七〇円、第二組合平均が三、二五七円、非組合員平均が三、二二八円であり、同年夏季一時金は、全従業員(本工)平均が四万九、六四〇円、第一組合員平均が四万七、〇九二円、第二組合員平均が四万九、八五八円、非組合員平均が五万〇、四七一円であつた。当時の控訴会社の従業員構成からして、第一組合員は、第二組合員ないし非組合員に比し、経験年数が圧倒的に長かつたのであつて、それにもかかわらず右のような結果となつていることは、控訴人がその査定幅を濫用し、第一組合員に不当に不利益を与えたことによるものといわざるを得ない。
(4) 第一組合の組合活動の制限抑圧について。
前にもふれたように、電気部には第一組合員やその組合役員が多くいるところから、会社はビラ配布については特別の監視をし、以前には電気部の仕事の一部であつた工場内の巡回を中止させることまでした(巡回の機会に組合活動をするとの疑惑のためである)が、昭和四〇年九月に至るや、会社は、休憩時間中といえども構内においてビラを配布してはならないとの警告を第一組合に対し行なうに至つた。しかも右警告において、就業時間を実働時間と休憩時間を合わせたものであると解し、休憩時間中の組合活動を一切禁止してきたことは第一組合に対する重大な不当労働行為である。同様のことは昭和三九年六月一五日においても行なわれており、ビラ配布活動をした第一組合員に対して始末書の提出すら要求しているのである。
また会社は休憩時間中における第一組合の組合役員の入構を不当に拒否した。すなわち、第一組合の組合長黒田正明に対して昭和三九年八月六日無許可入構であるとして文書で注意処分し、また、第二組合の組合長には入構を認めながら右黒田組合長に入構を拒否したこともあつた。さらに、現に第一組合の役員である被控訴人山本が組合活動のため入構しようとしても、一切これを拒否している。昭和三九年八月六日には、組合要務のための職場離脱を組合要務とは認められないとして拒否した(甲第一一四号証)。
昭和三六年一二月頃第一組合の副組合長であつた檜垣幸美が休憩時間中に守衛室で年次有給休暇のことで調査していたところ、会社は就業時間中の組合活動にあたるとして同人を副主任から解任し、しかもその際工場長は、「休憩時間だからといつて勝手に何をしてもよいというわけにはいかん」といつて、休憩時間中の組合活動を事実上制約しようとした。昭和三七年八月一六日の特定休日に被控訴人山本と同様出勤しなかつた電気部の組合員の父兄をその頃会社に呼出し、組合活動をやらせないよう父兄からも説得するようにと申向けた。また原木部従業員全員を解雇したこともある。
(5) 社宅入居の不当な拒否について。
第一組合員である石川敏郎は昭和三七年二月七日控訴会社に対し社宅入居申請をしたところ、当時二〇戸の空室があり、同人と同時に入居申請をした二名の第二組合員は許可されたのに、同人のみ不許可となつた。これは、同人が第一組合員であり同人の兄が第一組合の執行委員であつたことによるものであり、地労委も不当労働行為である旨の裁定を下した。
石川昇平、山本義夫、日野克彦、石川修の四名はいずれも第一組合員であつたが、結婚をするので、昭和三八年頃から昭和四〇年頃にかけ、社宅の入居申請をしたところ、社宅に空室があつたのにもかかわらず、入居を拒否されたり、許可を一年ないし二年遅らされたりした。会社のあげた理由は、住宅に困窮しているかどうか調査中であるとか、或は、社宅に建設業者の監督又は技術者が宿泊するので空けておく必要があるとかいうものであつて、理由にならない理由であつた。第二組合員あるいは非組合員については、入居を拒否された事例は全くない。
(6) 配置転換を利用した差別待遇について。
第一組合員である宮本輝雄は、昼専の部署である川之江工場のチツパーにいたが、本人は農業を営んでいて昼専務では農業ができないので、三交替部署への配転を希望していたところ、昭和三七年一一月か一二月頃調成(同年八月度より三交替制に移行)へ配転され、その直後に同人は第一組合を脱退した。
同じく石川誠一は、木材部(原木の皮の処理の仕事)から調成か回収に配転された。同人は木材部の仕事が重労働であるので非常に嫌つていたが、配転された日の三日以前か以後に第一組合を脱退した。
同じく森川由之、石川勺(ないし義夫)は、従業員から一般に喜ばれない木材部にいたが、川之江工場の六号抄紙機(丸住の生命といわれる最新鋭機の部署)へ配転された。通常このような配転は全くないのであるが、右配転直後組合脱退届が郵送されてきた。
(7) 控訴会社の一貫した第一組合に対する破壊、弱体化の施策により第一組合の人数は漸次逓減し、昭和三八年三月当時においては、七、八十名位に減少してしまつた。被控訴人らの解雇も、控訴会社の不当労働行為の一環にほかならないのである。
五 さらに、本件解雇の意思表示は、すでに述べた諸事情、とくに、事案の軽重、平素の勤務態度(被控訴人高橋については、更に行為時の特殊な状態)を考慮すれば、憲法第二八条に違反し、解雇権の濫用であつて、民法第一条第三項、第九〇条により、無効である。
六 仮処分の必要性について。
(一) 被控訴人山本は、印刷業をしている父が昭和三八年一月三〇日交通事故に遭い、収入皆無であり、五人の弟妹がいるが、そのうち就職しているのは一人で、他は学生であるから、同被控訴人が父および弟妹を養つてゆく責任がある。
(二) 被控訴人高橋は妻と小学生の長男を頭に三人の子供を自己の賃金で養つているのであり、不動産としては二反余りの畑しかない。
(三) 被控訴人岡田は自己の賃金で両親と弟妹を養つている。
(四) 控訴人主張のように、被控訴人らの解雇後、丸住製紙労働組合がその上部団体である紙パ労連から賃金、退職金相当額を受領した事実はない。
かりに、被控訴人らが何らかの形で収入を得ておりあるいは闘争資金の援助を受けているとしても、それゆえに仮処分の必要性がなくなるものではない。
元来賃金収入により生計を維持している労働者は、解雇により精神的にも物質的にも極めて不安定な状態に追いこまれる。その解雇が無効であると争つてみても、自分とその家族のさしあたりの生活を放置することはできないから、窮余の策として、自己の労働力により或程度の収入の途を講ずるのであり、これはやむを得ないところである。もし解雇撤回闘争中の労働者に対し、仮に他から収入を得ているとの一事により仮処分の必要性を認めないとすれば、無資力な労働者は、自ずと訴訟を諦らめ、不当な解雇を争う能力を喪い、解雇を承認せざるを得ない状態におち入るであろう。このような不合理を避けるためにも、仮処分の必要性は認められなければならない。
(五) 控訴人は、バツクペイについてはそれ自体仮処分の必要性がない旨主張するが、過去の賃金だからとて直ちに仮処分の必要性を欠くものとはいえない。
かりに労働者が他から収入を得ていても、その収入は従前よりも少額且つ不安定なものであることが多く、遡及払を認めないと事実上解雇を争えない状態におち入ることになる。被控訴人ら三名についても事情は右のとおりであり、バツクペイの必要性の存することは明らかである。
七 以上の理由により、被控訴人らが控訴会社の従業員たる地位を有することを仮に定め且つ解雇の翌日以降の賃金の仮払を命ずる旨の仮処分命令を求める。
(被控訴人らの附帯控訴の理由)
一 被控訴人らが解雇の意思表示を受けた後、第一組合はその組合員の賃上および各年の夏季一時金、年末一時金について交渉をなし、別紙賃金表(一)ないし(三)の「賃上、一時金妥結日及び金額」欄記載の日に、同欄記載の金額で協定を締結した。
二 ところで、右協定も一の労働協約にほかならないところ、労働組合法第一六条の直律的効力により、賃金等の労働条件は当然各組合員の労働契約となるから、被控訴人は、別紙賃金表(一)ないし(三)記載のとおりの賃金、一時金を直接に控訴人に請求し得る権利を有する。
三 仮処分を求める必要性については従前主張のとおりである。
四 被控訴人らが控訴人に請求し得べき金額は、原判決において認容された金額を超えるから、附帯控訴によりその支払を求めるものである。
(控訴人の答弁および主張)
一 被控訴人らの主張事実中、一および二の事実は認めるが、本件解雇が不当労働行為であり或は権利濫用であるとの被控訴人らの主張は争う。
二 控訴人は被控訴人らを次のような経過と理由に基づいて解雇したものである。
(一) 控訴人会社は装置工業に属し、原料に化学変化を与えて製品にするまでの一貫連繋作業を行なつており、約七〇〇名の従業員を川之江工場と金生工場の各現業部署に二名以上十数名を単位として配置し、集団共同作業に従事させているのであるが、電気、薬品等の危険物を操作することと作業の関連性の面からいつて、職場の秩序と規律が甚だ重視せられるのである。殊に控訴会社においては、昭和三六年四月被控訴人らの所属する組合である全国紙パルプ産業労働組合連合会丸住製紙労働組合(被控訴人らのいわゆる第一組合)との間に争議を惹起し、一三八日間に及ぶ長期紛争が起き、控訴会社は外においては製品の販路を失い、内においても各種の経済的損失を招いたばかりでなく、従業員の作業意慾低下をきたし、非常な危機に逢着したので、これが立直しのため、乱れがちの職場の秩序、風紀を厳にし、就業規則を履践せしめる必要があつた。その上、控訴会社では争議終結後職場の災害が多発し、そのため不名誉にも伊予三島労働基準監督署より特別安全管理指導事業所に指定されて注意を喚起されるほどであつたので、職場の安全のためにも規律を重んずる必要に迫られていたものである。
(二) 被申請人山本を解雇した理由は、次のとおりである。
(1) 特定休日出勤拒否の件。
(イ) 被控訴人山本は川之江工場原動課電気係に所属し副主任をしていたものであるが、控訴会社では、昭和三七年八月一六日(いわゆる旧盆であつて就業規則で特定休日となつている)の休日に電気関係諸設備の点検および修理を行なうこととし、その前日電気係の従業員四名に対して出勤を命じた。右出勤を命ずるに際しては、やむを得ない事情のある者がその旨申出れば出勤を免除する旨申し伝えており、それに従つて免除を申出た者もあつた。しかるに、被控訴人山本らは事前に何らの申出もせず、且つ正当な事由がないのに、当日欠勤した。なお、当日他の者が欠勤したのも、被控訴人山本の教唆或は同被控訴人との共謀によるものである。このため当日の作業計画に手違いを生じて予定の作業、すなわち、GPポンプ室の操作盤および分電盤の改修工事が行なえなかつた。会社はこの業務命令違反行為について就業規則第八〇条第八一条に基づき、始末書の提出を求めたが、応じないので、同年九月五日同人を副主任解任および減給の処分に付した。その処分の一内容として、就業規則上定められている始末書の提出を命じたが同人はその提出を拒否した。
(ロ) しかるところ、被控訴代理人は、特定休日の出勤を命じた業務命令は無効であり、従つて右業務命令に従う義務はない旨主張するが、右主張は誤りである。
会社は、被控訴人山本の所属する第一組合との間で、昭和三九年九月四日付で特定休日の協定(甲第一〇号証の一)をしたことはあるが、労働協約を締結したことはないから、労働組合法第一六条の問題は起り得ない。
かりに、右協定が労働協約たる性質を有するとしても、特定休日を協定したに止まり、当該休日に労働をなさしめないことを確約したものではない。又右協定当時の就業規則第二六条によれば、指定休日以外の休日(特定休日)にも出勤させることもあると規定されているのであり、右規定の存在を前提として前記協定がなされているのであるから、特定休日の出勤命令は労働組合法の規定に違反するものではないのである。
また被控訴代理人は、会社と組合との間に締結された「時間外労働、休日労働に関する協定」(乙第五号証)によれば、特定休日の出勤について何らの規定なく、特定休日については労働基準法第三六条の協定が締結されていないから、特定休日に出勤する義務がない旨主張する。しかし、労働基準法第三六条による協定の対象となる休日は同法第三五条の休日即ち毎週一回の休日(控訴人会社では指定休日と呼ばれている)のみであつて、右休日以外の祝祭日等については三六協定を要しないのであるから、被控訴人の主張は理由がない。
また被控訴代理人は、かりに特定休日が三六協定の対象にならないとしても、すでに特定休日が労働契約の対象となつている以上、個々の出勤について当該労働者の合意が必要であり、かりに前記「時間外労働、休日労働に関する協定」にいわゆる所定休日の中に特定休日が含まれており、特定休日の出勤について協定があると解しても、右協定により当然に個々の労働者について休日出勤の義務が発生するものではない旨主張する。しかし、組合において協定を締結した以上、組合員はその協定に服する義務があると解すべきである。かりに三六協定なるものは公法上の責任を免れしめるにすぎないとの見解に従うとしても、就業規則等に休日出勤に関する規定があれば私法上の債務が発生するものであるところ、控訴会社の就業規則第二六条第二項は、「前項定休日の外、業務上その他の都合でやむを得ない場合に限り、さらに他の休日にも出勤させることもある」と規定しているのであつて、この規定により休日出勤の義務が生ずることは当然である。
なお、被控訴代理人は、控訴会社においては休日出勤には組合の承認を要する旨の約定又は慣行があるように主張するが、そのような事実はない。そうすると、本件休日出勤の業務命令が適法であることは明らかである。
(2) テニス観戦の件
(イ) 被控訴人山本は、同年九月二八日午後四時半頃未だ就業時間中であるにもかかわらず、一緒に勤務していた同僚大西英司と共にほしいままに職場たる変電所を離れ(従つて職場には誰もいない状態であつた)、変電所より約四〇メートル離れ且つ倉庫をもつて遮られている位置にあるブロツクの塀に上り、足を塀の外側にぶらさげて腰かけ、テニスを観戦していたところを、工場長井川康に発見されて注意を受け、始末書を提出するよう命ぜられた。
(ロ) 被控訴代理人は、被控訴人山本がテニスを観戦していた時間は、待機時間中であつた旨主張するが、その主張は誤りである。同被控訴人の当日における就業時間は午前七時から午後六時までであり、その間に、午前一一時三〇分から午後〇時二〇分までと、午後二時より午後二時一〇分までの休憩時間がある。右勤務時間内においては、当然、会社より命じてある勤務(それは時間的のみならず空間的=場所的、内容的な拘束を伴う)に服さなければならない。ところで、被控訴人側も述べているように、電気係の従業員には昼専門勤務(当時は午前七時より午後四時半までのみの勤務)の者と、交替勤務の昼勤(当時は午前七時より午後六時まで)の者とがあり、従つて、毎日午前七時から午後四時半までの間は、両勤務形態の従業員の勤務時間が重なるようにしてある。電気係の従業員の仕事の内容は、工場の電動機送電線その他電気関係の諸施設の補修、改造、新設等の作業(保守)並びに変電所における監視に大別できるが、午前七時半より午後四時半までの間は、昼専者も交替勤務の昼勤者も、ともに主任の指揮下において、前記保守の業務に服し、変電所内における監視業務は、主として主任がこれに当り、午後四時半以降はその監視業務を交替番の昼勤者が引継ぎ、午後六時に交替番の夜勤者に引継ぐことになつている。もちろん午後四時半以降においても、突破事故に伴う保守業務や、とくに必要のある業務は、変電所で監視業務をしている勤務者がこれに当ることになる。また、手が足りないときは、緊急に他の者に出勤を命じて一緒に行なうこともある。従つて被控訴人山本の当日の勤務時間はあくまでも午後六時までであり、待機時間というような規則もなければ慣行もない。
しかして、控訴会社の変電所においては、四国電力から六万ボルトで受電し、これを三千ボルトに降圧して工場内の五か所に送電しているが、その受電並びに各送電の線毎にO・C・B(オイル・サーキツト・ブレーカー=油入遮断器)のついた配電盤と計器盤(その中には四国電力よりの受電量を示す計器盤もある)がある。変電所における業務は、それらの一切を監視並びに管理することと、計器にあらわれた使用電力量を受電総量、各線の消費電力量の区別で一時間毎に記録することとであつて、受電総量は電力会社に対する報告資料とし、またその余の使用電力量は会社の生産管理上の資料として、使用されることになるのである。
従つて、変電所勤務者はメーターを記録したり、事故発生時に補修その他の措置をとるばかりでなく常時計器の状態を監視し、それを通じて電動関係の状態を把握し、事故を未然に防ぎ得るだけの態勢をとつていなければならない。送電上の事故がなければ変電所にいなくてもよいというようなものではなく、一時間毎の記録さえすればその監視業務を果したというようなものでもない。会社の定めた勤務時間中は(時間的拘束)、やむを得ない事情のある場合のほかは会社の指定した勤務場所すなわち変電所内において(空間的拘束)、監視の状態における精神的、肉体的集中を続けるということ(内容的拘束)が、その勤務の内容である。これが近代化され計装自動化された職場における労働の特色であり、その精神的、肉体的集中という労働力の提供に、他の肉体的労働と同等またはそれ以上の対価が支払われるのである。
被控訴人山本は、従来電気部の従業員は午後四時半以降に私物の洗濯をしたり時には運動をしていた旨弁解するが、そのような弁解は全く事実に反する。現在の電気技術の水準からいえば、そう簡単に事故が起きるということもないであろうが、しかしまたその反面、一旦事故がおきれば、その結果が重大な場合が多いともいえるのである。だからこそ、機械的にもそのような事故の生じないように技術上充分の考慮が払われているが、機械のみではフイードバツクとしては、なお足りないので、人間が計器を監視することによつてフイードバツクを補足せんとしているのである。近代企業の生産設備のもとにおいては、監視業務は従業員の仕事の中心になりつつあるのであり、その仕事を放棄することは、本来の基本的な業務の放棄に外ならない。
なお、被控訴人側の証人の中には、法律上は常時監視の必要がないように述べる者がいるが、その証言は正しくない。
昭和三十七、八年頃においては、「電気に関する臨時措置に関する法律施行規則」第一条第一項により、旧「自家用電気工作物施設規則」(昭和七年逓信省令第五六号)第五章「業務及保安上ノ義務」第三十二条の「発電所、受電地点及変電所ニハ相当ノ技術者ヲ置キ送電中之ヲ監視セシムベシ但シ第三条、第四条又ハ第十一条ノ規定ニ準ジ通商産業大臣又ハ所轄通商産業局長ノ認可ヲ受ケタル場合ハ此ノ限ニ在ラズ」との規定が効力を有していたのであつて、控訴会社は右但書による認可を受けている会社ではなかつたから、常時監視の要があつたのである。
現在は通産省令第六一号「電気設備技術基準」第五七条の但書により一号の一〇万ボルト以下の変電所については常時監視を必要としないことになつているが、右基準は昭和三九年法律第一七〇号「電気事業法」の附則2により前記「電気に関する臨時措置に関する法律」が廃止されたのに伴つて新たに制定されたものであつて、昭和三七年当時施行されていたものではない。控訴会社は昭和四二年九月二二日右基準の但書の各号に該当するものとして認可申請を行ない、同年一〇月二七日認可を受け、遠隔監視制御設備を発電所の中央制御室に設置して、そこに原動課員を常駐させているのである。
(3) 夜勤中横臥睡眠の件
(イ) 被控訴人山本は昭和三八年三月九日午後六時より翌一〇日の午前七時までの間、変電所の夜勤勤務についたが、その勤務時間中である一〇日の午前零時頃より午前四時頃までの間、ほしいままに変電所の長椅子の上で横臥し、毛布(この毛布は睡眠のための毛布ではなく、抄紙器のカンバスを切つたもので前垂等に利用しているもの)をかぶり、二キロワツトの電熱器二個を前後におき睡眠をとり、その間監視業務を放棄した(当日は相勤務者である大西が休んでいたので、その間完全に業務は空白であつた)。
(ロ) 被控訴代理人は、夜間の仮眠が事実上認められていたように主張するが、業界一般を通じてかかる事実はなく、控訴会社では過去にも夜勤中の睡眠者に対して、訓戒、始末書提出の処分を行なつてきたのである。
(4) 始末書の提出拒否、訓戒に対する反抗について
被控訴人山本は、前記のようにテニス観戦の件につき、始末書の提出を命ぜられ、その日とその翌々日には自己の非を認めていたが、結局において始末書を提出せず、その後においては、言いのがれを構えて、逆に自分のやつたことは少しも悪くないという態度に出るに至つた。なお、前記の特定休日に出勤を拒否した件についても始末書を提出しなかつた。
そこで、控訴会社の常務取締役星川正延は、昭和三八年三月九日同被控訴人を呼出し、特定休日出勤拒否とテニス観戦の二件につき始末書を提出するよう重ねて命令し、同時に同被控訴人の職務規律違反について訓戒したが、同人は全く聴き入れようとしなかつた。そのとき同人は、腕組みをして椅子になかばあおむけに腰をかけ、足を組み、始末書なんか提出すべき理由は何もないと称し、全く手のつけようのない態度であつた。
なお、前述の夜勤中の横臥睡眠は、常務が訓戒を与えたその日の夜の出来事であつて、被控訴人山本に反省の情が全くなかつたことは明白である。
(5) 勤務態度およびその余の職場規律違反について
被控訴人山本は以前より勤務態度がよくなく、上司の指示命令に対して返事をしなかつたり、非協力的な態度をとつていたばかりでなく、昭和三七年一二月末頃会社の許可なく構内でビラ配りをし(就業規則第八一条第一五号該当)、同年一〇月頃二回にわたり、同僚の大西英司のタイムカードを打刻した(同第八二条第二号該当)。
(6) 被控訴人山本の行為、態度は以上のようなものであつたから、同人は就業規則第八二条(懲戒解雇理由を定めた規定)の第一九号の「訓戒、懲戒数回に及ぶも、なお改悛の見込なき者」に該当する。そこでいう「訓戒、懲戒数回に及ぶ」というのは、訓戒が数回であつてもよいし、懲戒が数回であつてもよく、また訓戒と懲戒とあわせて数回であつてもよい趣旨であり、その数回とは二回以上を指すものである。要するに右規定は、従業員が会社の規律を紊乱するような行為をし、会社側においてその点を指摘して注意をし、反省を求めるというようなことが数回あつたにもかかわらず、なお一向に反省するところなく秩序紊乱行為をくりかえし、もはや会社の規律に従つてやつていくであろうことをその者に期待(信頼)しえない場合を指すものである。原判決のいうように、訓戒であれば訓戒のみが数回、懲戒であれば懲戒のみが数回なければならない、という意味ではない。
被控訴人山本は、その秩序紊乱行為について、前記の如く再三注意を受けているが、この注意も就業規則第八二条第一九号にいう訓戒にほかならない。かりに原判決のいうように、規律違反行為が一箇であればそのことについて何回注意をしようとも訓戒としては一回であるというようにみても、少くとも始末書提出拒否と業務放棄による規律違反行為について訓戒をうけているといえる。従つて、訓戒と懲戒をあわせれば、少くとも三回あつたということになるであろう。そして、同人の一連の非行とその間の言動をみてみると、会社の規律維持ということについて一片の反省をも示すことなく反抗的態度に終始し、なお同様の秩序紊乱行為を重ねたのであるから、改悛の見込みのないことは明らかである。従つて同人の行為が就業規則第八二条一九号に該当することは疑いの余地がない。
そればかりでなく、被控訴人山本は、就業規則第八二条第四号にいう「業務上の指示命令に不当に反抗し職場の秩序をみだした者」にも該当する。右規則にいう「業務上の指示命令」とは、従業員が企業主体に対して負つている服従義務の内容を具体化するもの全部を指すのであつて、就業規則上の一般的命令、指示、達示、命令、告等一切を含むのである。従つて、テニス観戦による業務放棄や、横臥睡眠による業務放棄も就業規則にいうところの指示命令違反にあたる。始末書の提出命令も、企業主体が企業活動(企業の規律維持の活動を含む)の必要上従業員に対して要求するものであるから、「業務上」の命令である。また「業務上の指示命令に不当に反抗し」との規定は正当の理由なく指示命令に従わないことをも意味するのであり、この「反抗」は直接指示命令自体に積極的に反抗するだけではなく、右のような就業規則違反の行為のあつた後上司より訓戒を受けた際これに反抗的態度に出た場合を含むのである。この見地よりすれば、被控訴人山本が昭和三七年八月一五日出勤命令を受けていながら出勤しなかつたこと、或は、再三の始末書提出命令に対し、始末書を提出する問題ではないとして拒否し続けたこと、はいずれも「反抗」に該当する。これを要するに、被控訴人山本の右各行為は、就業規則第八二条第四号にも該当するのである。
かりに右各号に該当しないとしても、前記の各行為および情状に照らすと、同条第二一号の「その他前各号に準ずる行為のあつた者」には該当する。
したがつて、本件解雇処分は適法である。
(三) 被控訴人高橋を解雇した理由は、次のとおりである。
(1) 同人は、金生工場の原木係として勤務していたものであるが、昭和三六年の争議中、同被控訴人の所属する組合は、外部応援団体等多数支援のもとに、集団の暴力をもつて、会社の幹部や非組合員等が就労のために工場へ入出構することや製品資材等を入出荷することを阻止妨害した。これについて、同年六月九日、松山地方裁判所西条支部は、川之江工場につき、組合の集団暴力による会社の操業要員に対する入出構妨害、会社の行なう製品資材の入出荷に対する妨害等が違法の手段として許されえないものであることを明らかにして、妨害排除の仮処分決定を行なつた(金生工場については、いまだ会社が生産をしていないからという理由で認容されなかつた)。しかるに組合は、右の仮処分決定を無視してその後も妨害行為をつづけ、川之江工場のみならず金生工場についても同様の行為に及んだ。このため、一旦工場内に入つた会社幹部、非組合員等は籠城生産を余儀なくせられ、食糧の搬入までも阻止するという人道上からみても非難に値する手段をとられるに及んで、長期間空輸で補給を受けるという状態になり、不自由な生活を強いられたため、従業員の中に病人が続出し、入院させねばならぬ者も出てくる状況となつた。
被控訴人高橋の暴行傷害は、その病人を搬出するために工場に赴いた会社幹部に対するものである。すなわち、従業員の中に入院を必要とする者が出たので(後日判明した病名は精神錯乱で、徳島医大病院で四か月も入院加療を受けた)、八月五日、山林課長高橋厚美が輸送課長の星川律義の運転する乗用自動車で、右の病人を搬出し入院させようとしたのであるが、無用のトラブルを避ける意味で、組合の闘争本部にそのことを連絡したところ、妨害しないということであつたので、工場正門前に至り、高橋厚美が乗用車から降りて正門通用口から構内へ入ろうとしたところ、折から正門前附近でピケをはつていた約五、六十名にのぼる組合員らがやにわに同課長を幾重にも包囲し、同課長が闘争本部では妨害しないといつていると述べて抗議するにもかかわらずこれに耳を藉さず、同課長の自由を拘束して、その周りを渦巻の如くまわり、よつてたかつて、なぐる、ける、つく等の暴行を加え、いわゆる洗濯デモと称する悪質なる集団暴行を行ない、あげくの果は、同課長を正門前道路の前を流れている水深約五〇糎、道路面からの深さ約一米四、五十糎ある川の中へ突き落し、道路上に立ちふさがつて同課長を路へ上げず、約三〇分間にわたつて水につかつたままの状態におき、同課長がたまりかねて道路の上へはい上ろうとするや、再度同課長を川の中へ突き落した。その際被控訴人高橋は、橋の上から手頃の石を同課長の顔面めがけて投げつけ(その際同被控訴人のほかに石を投げたものはない)、それを同課長の額に命中させて傷害を負わせた(コブができて出血した)ばかりでなく、さらに、「自動車をひつくりかえすからみんなこい」といつて、他の組合員を指導しその先頭に立ち、正門前で待機中の乗用車の後方および右側を多数の組合員等と共に高く持ち上げ、自動車をひつくりかえさんばかりに傾け、ついで自らバケツで水をもつて来て自動車の上からブツかけ、さらに、自動車の廻りから約一〇回にわたつて自動車をゆさぶり、自動車に乗つていた星川課長に著るしい恐怖を与えると共に、同課長を自動車の中で転倒させ、自動車の内壁、窓ガラスに身体を激突させ、耳に打撲傷を負わせ、遂に当日は、会社の病人搬出業務を不能ならしめたのである。なお、組合員らは当日工場内から迎えに出ようとした星川保山林部長に対してもいわゆる洗濯デモによる集団暴行を加え、約五〇日間の入院を要する肋骨骨折の傷害を負わせている。
被控訴人高橋は、右の如き暴行傷害行為により逮捕せられ、刑事裁判に付せられ、昭和三七年一二月三日同人の行為が裁判上明らかにされて罰金四千円に処せられ、同人の控訴なく右裁判は確定した。
なお、同人は、平素から同僚との協和に欠けるところがあり、勤務状態も良好でなかつたが、争議後は従来にもましてその勤務態度が悪く、上司の指示命令を素直にきかず、非協力的な態度に終始し、職制から注意を受けても改まらなかつた。
会社は、同人の暴力行為が刑事事件としてとりあげられたので、裁判上の認定をまつてその責任を明らかにしようと考え、裁判をまつていたところ、昭和三八年二月中旬頃になつて裁判の結果が判明したので、就業規則第八二条第二〇項の「刑法その他の法令に規定する犯罪に該当する行為のあつた者」に該当するものとして、本件懲戒解雇処分に付したものである。
なお、同人は、控訴会社に入社する以前である昭和一二年頃殺人未遂罪で懲役五年の実刑に処せられたことがあり、これを秘匿して入社していたことが前記暴行事件の裁判により判明したので、本件解雇処分を判決する際情状として考慮した。
(2) 懲戒処分における情状の軽重は、社会一般の秩序の維持という観点における刑事処分の軽重と、結果的に一致する場合もあれば一致しない場合もある。従つて刑事責任の軽重から、ただちに懲戒処分における情状の軽重を即断することはできない。会社の行う懲戒処分は、社会一般の秩序をみだしたかどうかという観点における評価ではなく、当該企業の設定した規律なり秩序なりを紊したかどうかの観点における評価によつて決定されるべきものである。同被控訴人の前記のような狂暴な行動は労働組合法第一条で厳禁しているところであり、上司たる課長に対する暴行である点、平素の勤務状態もよくなかつた点、その他前記の情状を考慮すれば、会社が雇傭契約上の信頼関係を到底維持し得ないと判断したのは当然のことである。
(四) 被控訴人岡田を解雇した理由は、次のとおりである。
(1) 同人は、川之江工場抄紙課の係員として第六号抄紙機の業務に従事していたものであるが、前記の争議中である昭和三六年八月八日、川之江市金生町一一〇番地にある会社の社宅第二号館(四階建)の屋上において、会社の輸送課長星川律義の次男星川仁(当時一〇才が)が風景を写生していたところへ行き、同人の写生を手伝つていた(そのときは、まだその少年の名前などを知らなかつた)が、それが終つて同人にその氏名や父の氏名等を尋ね、同人が輸送課長(星川課長は乗用車の運転をもしていた)の子供であることを知るに及び、「お前とこの父ちやんが会社の運転手をしておるのか。話があるからこちらへ来てみい」と言つて、同人をその屋上の第二階段の出入口附近のござの敷いてある処へ連れて行き、「ここへすわれ」と言つて同人の肩を押えてそこに座らせ、手で同人の背中、足、腰等を殴打し、同人が痛いので泣き出すや「大きな声を出すな。出すとなんぼでもたたくぞ」とおどしつけて、さらに暴力をふるい、前後十五、六回にわたつてなぐりつけたうえ、さきに手伝つて書いてやつた絵をとつてこれを引破り、「もういなしてやる」といつて、ようやく暴力行為をやめるに至つた。同少年は泣きながら家に帰り、家族にシヤツやズボンをぬいで、なぐられたところを家人にみせたところ、背中の右の方にはなぐられた跡がまだ赤く残つていた。
被控訴人岡田は、右暴行事件について逮捕されて刑事裁判に付せられ、昭和三七年一二月三日松山地方裁判所西条支部で罰金二、〇〇〇円に処せられた。
なお、被控訴人岡田の平素の勤務成績もあまり良くなく、上司から指示命令をうけても協力的に仕事をしようとせず、その動作も極めて緩慢であつた。
会社は前記の有罪判決を昭和三八年二月中旬頃、被控訴人高橋に対する判決と同時に知り、平素の勤務成績をも考慮の上、被控訴人高橋と同様、就業規則第八二条第二〇項により、懲戒解雇処分に付したものである。
(2) 同被控訴人に対する刑事判決が少額の罰金であつたとしても、それは会社の規律という観点からみた評価ではなく、社会一般の規律という観点からみた評価であり、会社の規律違反という面からみれば、悪質極まるものである。
また、同人の暴行は、平素行なつている仕事に直接関係する犯罪ではないけれども、それだからといつて、規律紊乱行為にならないとか、或はその情状が軽いとかいうことになるわけのものではない。
さらに、同人の暴行は、同じく幼い子供をもつた会社の幹部や非組合員、その家族に対し、極まりない不安を与えるもので、社宅における私生活の平穏を甚だしくおびやかすものであり、会社の雇用する従業員にそのようなことをする者がいるということは、その他の従業員並びに会社の品位、信用を著るしく失墜するものである。
同人は若年とはいえ、すでに二〇才を超えており、会社は一人前の従業員として会社の規律による服従を期待し、同人もその期待にこたえるべきことを約して従業員になつたものであつて、ただ若年であるということ、あるいはまた、思慮不十分というような根拠から、その責任を軽減されるべきものではない。むしろ、純粋であるべき青年が、年端もゆかない、罪のない幼児を、手のかたが赤くのこる程ひどく殴りつけるというようなことこそ重大であつて、会社としては、そのような者を信頼して雇傭関係を継続しておくことはできないのである。
(五) なお、控訴会社は、昭和三八年二月一三日伊予三島労働基準監督署に対し、被控訴人高橋、同岡田両名に対する解雇予告手当除外認定の申請を行ない、同年三月九日除外認定の通知を受けたので、同日両名に対し、解雇を通告したものである。
三 被控訴人らは、本件解雇処分は不当労働行為でありあるいは解雇権の濫用である旨主張するが、それらの主張は争う。また控訴会社が被控訴人ら所属の旧労(被控訴人らのいう第一組合)を差別待遇したような事実は全くない。
(一) 控訴人は、従業員の規則違反行為に対しては旧労(被控訴人らのいわゆる第一組合)、新労(被控訴人らのいわゆる第二組合)、非組合員の区別なく、厳重に訓戒または懲戒を行なつている。
昭和三六年一一月二五日旧労に所属していた従業員上田幾喜は争議中の暴力行為により伊予三島簡易裁判所において罰金三千円に処せられ確定したので、控訴会社は昭和三七年九月一日同人を就業規則第八二条第二〇号により解雇処分にした。被控訴人高橋、同岡田の解雇は右上田の場合を前例として勘案の上行なつたものであり、処分は公平にやつている。会社側から本件被控訴人両名に対してたとえ刑罰があつても解雇をしない旨言明したような事実は全くない。上田の前例があるからそのような言明をする筈がないのである。
また被控訴人高橋は、昭和三八年三月一日他の五名の者と共に旧労を脱退した旨会社に通告してきたのであつて、本件解雇処分当時同人は旧労の組合員ではなかつた。それにもかかわらず解雇処分を行なつたのであつて、この点からみるも旧労組合員であるが故に差別をしたものではないことが明らかである。
(二) 被控訴人が争議後における会社の不当労働行為として主張している事実のうち、主要なるものについて次のとおり反論する。
(1) 臨時工の本工登格問題について。
臨時工の本工登格基準については、争議解決の際の昭和三六年九月五日附協定書(乙第一五号証の一)の第七項により「(イ)試傭工として一ケ年の養成期間を経たものは選衡の上本工に登格する。(ロ)臨時に採用したものであつても勤務満一年を経過し試傭工試験に合格した者は試傭工とする。(ハ)臨時工から試傭工へあるいは試傭工から本工への登格は毎年四月度及び十月度よりとする。」とされている。ところで、この試傭工から本工への年限一年、臨時工から試傭工への年限一年、登格は毎年四月度ということは、争議前から制度化されていたところであつて、右協定書により試験制度を明文化し、登格を毎年一〇月にも行なうこととし、その回数を多くしたのにすぎない。そして、同日付の「斡旋事項に関する協定書附属覚書」(乙第一五号証の二)により、試傭工から本工への登格は選衡となつているが特別の事情のない限り本工に登格すること(三項の(イ))、試傭工試験は、技術、勤務成績、健康状態等人事考課に基づき行なうこと(同項の(ロ))、昭和三六年四月度をもつて本工に登格する資格を持つ者は、昭和三六年三月二五日で勤続満一年を経過した試傭工および同日で勤続満二年以上を経過した臨時工であること(四項)等を確認しているのである。
そして、争議解決後の最初の登格は昭和三六年九月中旬行なわれ、昭和三六年三月二五日現在で勤続一年を経過した試傭工から選衡の結果四〇名を本工に登格し、同時に右日時現在で勤続一年を経過しない試傭工から特別選抜者として一四名を本工に登格し、いずれも昭和三六年四月にさかのぼり本工の資格を有せしめた。また、昭和三六年三月二五日現在で勤続二年以上を経過した臨時工は前記のとおり本工に登格する資格があるので、その試験を同年九月一六日に行なう旨組合(第一組合)へ通知し(乙第一六号証の一)、また、構内に受験有資格者の氏名を掲示し、本人にも通知した。この試験は試傭工試験で、前記のとおり、技術、勤務成績、健康状態等人事考課にもとづき行なうものである。
ところが組合は、受験拒否の通知をしてきた(乙第一六号証の二)。前記覚書(乙第一五号証の二)の四項の、試傭工、臨時工の登格についての項目は単に受験資格を与える規定であるのに、組合は当然に登格されるものと誤解していたのである。
そこで会社は、やむを得ず受験希望者である満二年経過の臨時工八名の登格試験を行なつた。受験希望者八名の内訳は、第二組合員五名、非組合員二名、第一組合員一名(長期欠勤者)であつたが、第一組合所属の受験者一名は長期欠勤のため保留とし、他を全員登格し、その結果を同月二六日付で本人に通知した。なお同時に、二年末満の者でも特に優秀な者五名に受験資格を与え、試験の上、特選として本工に登格した。
ところが第一組合は、前記本工登格の試傭工試験は協定違反だと称し、登格の取消を主張し、ストライキをも辞さない態度であつた。会社は日ならずして再び争議を繰りかえすことを憂慮し、昭和三六年一〇月三日の団体交渉により譲歩し、同日付で覚書(乙第一五号証の三)を作成した。
その覚書の一の1「昭和三六年三月二五日現在臨時工にして二年以上の一七名については、常識的な試験の上全員本工に採用する」との条項により、同年一〇月二三日に学科試験、一一月九日に面接試験を行ない、第一組合員一七名の内一六名を合格させ、一名は長期欠勤者のため不合格とした。
同じく覚書の一の2「昭和三六年三月二五日現在二年未満の臨時工にして特に成績優秀な者は今回に限り選抜して試験の上本工に登格する」との規定により、対象者八名の中二名(第一組合員)が本工に登格し、なお五名(第一組合員)が試傭工に登格し、一名(第二組合員)が不登格となつた。
同じく覚書一の3「昭和三六年九月二五日現在二年及び二年以上に達した臨時工は同年三月二五日にさかのぼり試傭工試験を受ける資格を有する。而して三六年一〇月に実施する試傭工試験に合格の者は今回に限り特例により本工に登格する。不合格者は来年四月度試傭工試験を受ける資格を有し合格すれば試傭工となる。本項、本工に合格者は、一〇月度より本工として採用する」との規定により、第一組合員一八名が受験し、本工登格者七名(うち三名は特に四月度より登格)、試傭工登格者三名、長期欠勤による保留一名、不合格者七名であつた。
同じく覚書一の4「昭和三六年九月二五日現在臨時工にして一年及び一年以上の者は試傭工試験を行ない合格すれば試傭工となる」との規定により、受験者三四名中、四月度登格者一四名(第一組合員一三名、第二組合員一名)、一〇月度登格者七名(第一組合員四名、第二組合員二名、非組合員一名)、病気欠勤による保留二名(第一組合員)、不合格一一名(第一組合員)であつた。
ところで、試傭工から本工への登格は勤務評定と面接試験による選衡によるのであつて乙第一五号証の二の三項(前出)に根拠を有し、また組合とも協議決定しているのである(甲一〇号証の八)。工場長、現場課長五名、労務課長、課長代理二名の九名が選衡に当り、過半数の賛否によつて登格を決定した。
また、臨時工から試傭工への登格試験は、前同様、乙第一五号証の二の三項により、まず学科試験として、常識、国語、数学、技術等業務上必要とする程度の試験を行ない、合格点に達した場合には一点を与え、面接綜合点を九点とし、合計一〇点として採点する方法をとつた。学科試験については、試験問題の水準、作業上の知識の必要度等に問題があるので、勤務成績、出勤状況、作業上の知識、能率等に重点を置いたものである。従つて、学科試験が満点であつても長期欠勤者であつたり、作業能率が極めて低劣な者は登格できず、反面、学科試験が不合格であつても、勤務成績、作業能率、出勤状況が優秀な者は登格できることになる。
被控訴人らが問題にしている昭和三六年一〇月三日付覚書(乙第一五号証の三)に基づいて行なつた登格試験で、学科試験に合格したが登格できなかつた者は、篠原秋夫外九名(一名は登格保留。いずれも第一組合員)であり、反面学科試験が不合格で本工に登格した者は、福田一郎外一七名であつた。
以上のような次第であるから、学科試験に合格していながら登格されなかつたからといつて、それが直ちに不当労働行為視されるべきものではない。
昭和三七年四月度からの本工登格については、前記の各登格基準の協定により、昭和三七年三月一六日に登格資格者に対し選衡のため面接を行なう旨組合へ通知したところ、黒田組合長は口頭で受験拒否をする旨通知してきた。その理由は、面接等の選衡は協定に違反するというのである。しかし、右協定では明らかに選衡制度が取極められており、面接も右協定にいう選衡の方法である。会社は三月一七日付文書を以て組合に対し、該当者に対し面接を受けさせるよう求めたが、組合はこれを拒否し、団交の申入をしたので、三月二四日団交を開き説明をしたが、組合は納得しなかつた。毎年三月二六日は労働契約の更新時期であるので、登格試験を拒否した者に対してはやむを得ず試傭工期間を一か年更新延長する旨の通知を出したところ、組合は三月二九日付文書を以て、「、、、三月二四日の第一回団体交渉において今回実施される面接は昭和三六年九月五日付の斡旋事項に対する協定書附属覚書三項に基づくものであることを労使双方確認致しましたので、当組合より該当者に通知致しておりました面接拒否を撤回し、面接を受ける通知をしておりますので、早急に実施されるよう要請します」(乙第二七号証)と申入をしてきたので、会社は登格試験を行なつた。その結果、試傭工三九名(第一組合員二〇名、非組合員五名、第二組合員一四名)、特選者二名(第一組合員一名、非組合員一名)の計四一名が本工に登格し、一名(第一組合員)が不合格となつた。
また、同じ四月度からの臨時工より試傭工への登格試験については、対象者二六名(第一組合員一四名、第二組合員九名、非組合員三名)中、第一組合員九名、第二組合員一名、非組合員一名の計一一名が不合格となり、他は全員試傭工へ登格した。第一組合員の九名の不合格者も同年一〇月の試傭工試験には全員合格している。
以上が臨時工、試傭工の本工登格についての制度および経過であり、被控訴人らが主張するような差別待遇の事実はない。登格問題については、第一組合の偏見、誤解がしばしば紛争の原因となり、組合は地労委へ不当労働行為の申立や斡旋申請を行なつているが、昭和三七年六月の不当労働行為五号事件(上田秀子外五名の登格問題)も同年一二月にその申立を取下げた。
会社は昭和三七年八月に臨時工、試傭工の登格基準を明確にしたい旨第一、第二組合へ申入れ、同年九月四日付協定書(その第三項、臨時工の本工登格基準)(乙第七号証の一および二)に双方調印し、爾来登格問題について労使間の紛争はなくなり、今日に至つている。
(2) 電気係の三交替制移行問題について。
会社は昭和三六年度より電気部も含め三交替を実施しようとし、特に電気係については新入社員も維持しておいたが、昭和三六年賃上時に会社の申入れた三交替案は前記のごとく組合の一蹴にあい実施できなかつた。その後電気係員近藤徳雄、小野順三、山川和彦の三名が昭和三六年一二月二五日までに退職したが、これが電気係の三交替制移行を遅らせた大きな原因となつた。
昭和三七年六月会社は第一、第二組合と電気係の定員について協議し、労使双方が了解したが、その内容は次のとおりである。
川之江工場 電気施設が多いので二交替時と同様、一直定員一名、補助一名、三直計六名
金生工場 規模が小さく、電気施設が少ないので、一直定員一名、補助〇名、三直計三名
昼専者 昼間勤務者で施設の補修工事を担当、定員最少限度三名
総計 一二名
ところが、当時の電気係在籍者は九名であり、その勤務編成は次のとおりであつた。
川之江工場
交替勤務者 一直二名 山本保雄(副主任)、大西英司(補助)(定員一名補助一名)
二直二名 檜垣幸美、山本義夫(補助)(定員一名補助一名)
昼専者 松本良孝(主任)、井原巧、越智勲
金生工場
交替勤務者 一直一名 佐々木馬雄(副主任)坂田敏行(補助)
昼専者 工事修理の必要ある場合川之江工場昼専者がこれを担当する。
そうすると、三名が不足であるが、昭和三六年退職した近藤、小野、山川がもしこの段階で在籍しておれば、六号機職場と同様、七月度より実施することが可能であつたのである。ところで当時技術者不足で中途で採用することは困難な状態であつたから、会社は第一、第二組合に対し、昭和三八年四月度に工業高校電気科卒業者を採用することになつているから、その時期まで待つてほしい旨述べ、各組合の了解を得たのである。
ところが九月になつて第一組合は、何らかの便法を講じ電気係の三交替制を実施してほしい、と要望して来たので、会社は組合の要望にそうこととし、次のような交替勤務案を提出した。
川之江工場 定員一名、補助〇名、計一名、三直三名
金生工場 定員一名、補助〇名、計一名、三直三名
昼専者三名(主任一名を含む)
以上九名
なお、川之江工場の交替番が欠勤した場合金生工場の交替番が川之江工場に勤務する。金生工場には必要に応じ原動課長又は主任が代行として勤務に当る。
以上の案を示し、組合が了解するのであれば一週間後から実施する旨述べたところ、第二組合は即座に賛成したが、第一組合は七日間程検討した末、六月提示の計一二名案をやはり実行されたいと回答してきた。そして、グランドパルプ部に勤務している本田吉男が電気経験があるし、抄紙六号機の計器監視の仕事をしている石川正治も電気通信科卒であるから、この二人を電気係へ配転すれば六月提示案が実施できる筈であると述べた。
本田の前歴は四国電力の臨時工で本人の技術習熟程度に危惧があつたが、当社へ就職後の勤務態度が良好であり、技術も或程度優秀であつたので、星川原動課長より本人の意思を尋ねたところ、本人は配転を断つた。
石川は高校電気通信科出身であるが、電気通信科は弱電部門で直ちに当社の電気係につけるのは無理であるばかりでなく、六号抄紙機の計器係は弱電部門出身者の適職であり、重要な職務で、同人をこの部署より外すことはできなかつた。
そこで、昭和三七年一〇月一五日の団体交渉時に右事情を第一組合に説明したところ、組合も事情を了解し、二交替部署には月額一、〇〇〇円の二交替手当を支給することおよび翌昭和三八年四月度まで電気係は現行二交替制でゆくことを確認したのである。
以上の経過であつて、控訴会社としては、三交替移行へ可能な限りの努力をしたのであり、電気係従業員の組合活動嫌悪というが如き理由をもつて三交替移行を遅延させたものではない。
(3) 賃金、一時金支給の差別問題について。
昭和三七年夏季一時金および年末一時金について、差額が生じたのは、次のような事情によるものである。
夏季一時金を支払う基礎となる出勤対象期間は、昭和三五年一二月度より昭和三六年五月度までである。第一組合員は昭和三六年四月二一日よりストライキに入つているので、出勤期間は五か月であるが、第二組合員や非組合員には五か月のみ出勤した者と争議中勤務につき六か月を充足した者とがある。右六か月を充足した者には第一組合との協定額二万七、〇〇〇円と月割計算一か月分五、四〇〇円との合計額三万二、四〇〇円を支給することになるので、そこに差が出てくるのは当然である。
年末一時金については、昭和三六年六月度より一一月度までが出勤対象期間となるが争議解決は同年九月四日であるので、第一組合員は三か月しか出勤していないが、第二組合員および非組合員は、六か月間全部を充足した者あるいは五か月の出勤対象期間を有する者が殆んどであるので、差異が生ずることはやむを得ない。会社はノーワーク・ノーペイの原則を実行したのにすぎず、差別待遇の意思はない。
なお組合は、昭和三六年夏季一時金について地労委へ救済申立をしたが、地労委は不当差別でないとして取下の勧告をし、組合は昭和三七年三月申立を取下げた。
次に、被控訴人らは、電気係従業員たる第一組合員に対する昭和三七年度年末一時金が非組合員ないし第二組合員に比較し、三、〇〇〇円から四、〇〇〇円少なかつた旨主張するが、それは次のような事情に基づくのである。
学卒者で毎年定期に採用する者の初任給は同額であるが、その翌年のベース・アツプ時の査定によつて差が生じ、その後の勤務成績によつて更に差が生じる。一時金についても、支給時点の賃金にスライドする額と出勤率、勤務評価等による額とがあり、格差が生じるのである。賃金、一時金の査定は、従業員の仕事に対する熱意と責任、能力による勤務態度や、会社に対する貢献度合について主観を排し公正に評価している。その査定方法は最高八点、最低一点と採点しており、平素の勤務態度が悪かつたり懲戒処分を受けたりした者は当然評価点が低下するところである。昭和三七年当時電気係員の中には、勤務成績が不良である上に勤務時間中に職場を放棄した檜垣幸美、出勤命令を拒否し無断欠勤した山本保雄(被控訴人)、越智勲、井原巧、山本義夫、勤務中に職場を放棄した山本保雄(被控訴人)、大西英司等がいるので、他の優秀な従業員と格差が生じたものであり、第一組合員なるが故に差別したというものではない。試みに昭和四〇年一時金参考資料(甲第九四号証の二)による出勤率(タイムカードで算出される)をみても、全従業員平均一〇・七六四点、第一組合員平均九・九四一点、第二組合員平均一〇・九〇三点、非組合員平均一〇・六九二点であつて、第一組合員は最低の出勤率であり、第二組合員と約一〇パーセントの差が認められるのである。
四 仮処分の必要性について。
(一) 被控訴人らは、その所属する組合の加盟する全国紙パルプ産業労働組合連合会制定の「弾圧対策規定」にもとづき、解雇後の賃金、退職金相当額、法廷闘争費用等の援助を受けているから、仮処分の必要性がない。また、バツクペイの如きは、それ自体保全の必要の範囲をこえるものである。
(二) その上、被控訴人高橋は解雇後、他に就職し、定収入を得ている。
第三疎明関係<省略>
理由
第一当事者、解雇通告等について。
控訴人が川之江市川之江町井池八二六番地に本社と工場を、同市金生町下分四二九番地に工場を置き、従業員約六八〇名をもつて、新聞用紙、各種印刷用紙、包装用紙等の製造販売をしている資本金二億円の株式会社であること、被控訴人山本は昭和三一年五月、同高橋は昭和二七年一月、同岡田は昭和三四年四月、いずれも控訴会社に雇傭され、後記解雇通告の頃においては、賃金として、毎月二五日限り、被控訴人山本は月金二万〇、四〇七円、同高橋は月金一万九、三四〇円、同岡田は月金一万六、七四九円を受けていたこと、控訴人が、昭和三八年三月一一日、被控訴人山本に対し、控訴会社の就業規則第八二条第四項および第一九項に該当する事実があつたとして、解雇の意思表示をなし、また、同月九日、被控訴人高橋、同岡田に対し、それぞれ就業規則第八二条第二〇項に該当する事実があつたとして、解雇の意思表示をなしたこと、以上の事実は当事者間に争いがない。
そして、成立に争いのない乙第四号証(就業規則)によれば、控訴会社の就業規則では、「第八十二条左の各号の一に該当する場合は懲戒解雇にする。但し情状により出勤停止又は減給に止めることがある。(一ないし三号省略)四、業務上の指示命令に不当に反抗し職場の秩序をみだした者。(五ないし一八号省略)十九、訓戒、懲戒数回に及ぶも、なお改悛の見込なき者。二十、刑法その他の法令に規定する犯罪に該当する行為のあつた者。(二十一号省略)」と規定されていることが認められる。
なお、成立に争いのない甲第一号証によれば、被控訴人山本に対する解雇通知書には、「貴殿を左の理由により昭和三十八年三月十一日付にて解雇致します。理由昭和三十七年八月十五日出勤拒否の件にて就業規則第八十一条、第八十二条により同年九月六日付にて副主任の解任並びに減給に処分せるも尚改悛の徴なく、再び同月二十八日就業時間中、みだりに許可なく自己の職場を離れ剰え休憩と称して工場のブロツク壁上に上り場外テニスプレーを観覧し工場長に発見され注意を受けたにも拘らずこれに反抗し指示したる始末書も提出せざる為、昭和三十八年三月九日常務より更に注意と始末書の提出を求めたるも反省の色なく拒否し同日(三月九日)の夜勤中である三月十日午前二時頃より横臥睡眠、同四時頃守衛係に発見せられたる事実等により就業規則第八十二条第四項第十九項に基き解雇す。」と記載されていることが認められ、また、成立に争いのない甲第三、第四号証によれば、被控訴人高橋、同岡田に対する解雇通知書には、それぞれ、「貴殿を就業規則第八十二条第二十項により昭和三十八年三月九日付をもつて解雇致します」と記載されていることが認められる。
第二被控訴人山本関係について。
一 成立に争いのない甲第二号証、第一〇号証の一、乙第四号証、第六三号証、当審証人篠原宏の証言によつて成立を認める乙第二二号証、原審および当審証人大西英司、同井原巧、同森実幸男、同松本良孝、同篠原宏、同星川武久(当審は第一回)、同井川康、同星川正延、原審証人檜垣幸美(第一、二回)、同山本義夫の各証言、被控訴本人山本の原審および当審における尋問結果および弁論の全趣旨を綜合すると、次のとおり一応認めることができる。
(一) 被控訴人山本は川之江工場原動課電気係に所属し、副主任をしていたものである。
控訴会社では、週一回の通常の休日のほか、特定休日と称して、年末年始二日、五月一日(メーデー)一日、旧盆一日、地方大祭二日、組合大会春秋各一日、計八日を一斉休日と定めているが、機械の運転休止中にその点検、補修、その他運転休止を利用した仕事を行なう必要があるとして、特定休日にも一部の従業員に出勤を命じ、出勤した者には、二割五分の割増賃金および基本給の五割の特定休日手当を支給するほか、希望により代休日を与えていたが、昭和三七年八月一六日(旧盆)の特定休日に、会社は開閉所の接地継電器の取付工事、グランドパルプ工場の分電盤、操作盤の改修工事等を行なう計画を立て、その前日、原動課長より、被控訴人山本ほか三名の電気係従業員に出勤を命じたところ、被控訴人山本は、「多分出勤できないと思う」と答え、その理由を問われても明確な返事をせず、翌一六日の特定休日に出勤しなかつた。
八月二一日工場長、原動課長、労務課長は被控訴人山本を呼出し、出勤しなかつた理由を尋ねたところ、被控訴人山本は腕組みしたまま、「理由を言う必要はない」と述べ、その中来客があつて工場長が暫時席を外したところ、同被控訴人は、「自分にも用事がある」と言つてその場を退席した。
控訴会社は九月五日同被控訴人を副主任より解任すると共に、懲戒処分として、減給処分に付し、九月度の賃金を五パーセント減給し、かつ、始末書の提出を命じた(控訴会社の就業規則によると、懲戒処分には、譴責、出勤停止、減給、昇給停止、懲戒解雇の五種があるが、懲戒解雇以外は、いずれも同時に始末書を徴する定めとなつている)が、同被控訴人は始末書を提出しなかつた。
なお控訴人山本と共に出勤を命ぜられたほかの従業員三名も右特定休日に出勤せず、いずれも減給処分に付せられたが、始末書を提出しなかつた。
(二) 昭和三七年九月二八日被控訴人山本は同僚の大西英司と共に変電所で勤務し、計器類の監視使用電力量の記録(一時間毎)等の業務に従事していたが、勤務時間中である同日午後五時過頃、大西と共に変電所から約四〇メートル離れた便所へ用便に行き、その帰りに便所横の高さ約二メートル位のブロツク塀の上にのぼつて腰かけ、工場に隣接している社宅構内のテニスコートで行なわれているテニスを二、三分間観戦していたところ、巡回中の工場長に発見され注意を受けた。
一〇月一日工場長は被控訴人山本を呼出し注意をすると共に、翌日の午後五時までに始末書を出すよう命じ、併せて、前回の特定休日に出勤しなかつたことについての始末書をも提出するよう命じたところ、同被控訴人は、「前回の件は悪いとは思わないが、今回の件は勤務時間中のことであるから悪いと思う」という趣旨のことを述べていたが、始末書は結局提出しなかつた。その後団体交渉の席上で工場長が被控訴人山本と顔を合わせた際、重ねて始末書を提出するよう命じたが、同被控訴人は始末書を提出しなかつた。
昭和三八年三月九日常務取締役星川正延は同被控訴人を呼出し、工場長、労務課長立会の上で、重ねて始末書の提出を求めたが、同被控訴人は、「特定休日の出勤を拒否した理由はプライバシーの問題だから言う必要はない」「テニスを観ていた時間は待機時間中であつた」「始末書を出す程の問題ではないと思うから出しません」等と答えて始末書の提出を拒否し、なおその際被控訴人は腕を組み足を重ねる等して応答した。
なお、被控訴人山本と一緒にテニスを観戦していた大西英司も同様始末書の提出を命ぜられたが、始末書を提出していない。
(三) 常務取締役より注意を受けたその日である昭和三八年三月九日の夜から翌一〇日にかけ、被控訴人山本は変電所で夜の勤務についたが、当夜の相勤務者である大西英司が欠勤したので、同被控訴人が一人で勤務していたが、一〇日の午前二時頃(ただし午前二時より午前二時一〇分までは休憩時間)から午前四時頃までの間、変電所内の木の長椅子の上で横臥し、毛布を被つて睡眠をし、午前四時頃守衛に発見された。
以上のとおり一応認めることができ、原審および当審証人大西英司の証言、被控訴本人山本の原審および当審における尋問結果中、右認定に反する部分は信用できず、ほかに右認定を左右するに足る疎明はない。
二 更に、原審および当審証人森実幸男、同松本良孝、同星川武久、同井川康の各証言を綜合すると、被控訴人山本は、昭和三六年末頃の午前一一時頃(休憩時間中であつたかどうかは明確でない)会社の許可なく構内で組合のビラを配つたことがあること、昭和三七年一〇月頃二回にわたり帰宅の際、同僚の大西英司のタイムカードを自分のと一緒に打刻し、守衛に注意されたことがあること、を一応認めることができ、右認定を左右するに足る疎明はない。
三 (一) しかるところ、被控訴代理人は、控訴会社と組合との間には、旧盆その他の特定休日の出勤について、労働基準法第三六条の協定が結ばれていないから、会社は特定休日に従業員に出勤を命ずることはできない筈であり、本件の業務命令は無効である旨主張する。しかし、労働基準法第三六条にいう休日とは、同法第三五条にいう週一回の休日を指し、それ以外の休日、すなわち本件休日のように、使用者が特に認めた休日を指さないものと解すべきであるから、右の主張は理由がない。また被控訴代理人は、旧盆その他の特定休日は労働協約をもつて定められており、労働組合法第一六条(労働協約の規範的効力)により労働契約の内容となつているから、個々の労働者の承諾がない限り、出勤を命ずることはできない旨主張する。なる程、控訴会社と被控訴人山本の所属する組合(いわゆる第一組合、旧労)との間で昭和三六年九月作成された協定書(成立に争いのない甲第一〇号証の一)は、年間八日の特定休日について協定しており、その形式、内容よりみて労働協約であると認められるが、特定休日における出勤命令を絶対的に排除する趣旨が含まれているものと認めることはできない。むしろ、さきに挙示した各疎明資料によれば、控訴会社では協定書成立以前から特定休日なるものは存在し、その日時は、年末年始二日、五月一日一日、旧盆一日、地方大祭二日(計年間六日)とされていたこと、特定休日は一応全員が休む日とされているが、機械の運転休止中にその点検、補修等を行なう必要があるところから、特定休日においても一部の従業員に出勤を命ずるのが永年の慣例であつたこと、就業規則では、特定休日の日時を明記すると共に、特定休日出勤者には公休日出勤手当および特定休日出勤手当を支給すべきものと定めていたほか、その第二六条第二項で、「前項定休日(註週一回の法定休日)の外、業務上其の他の都合でやむをえない場合に限り、さらに他の休日にも出勤させることもある」と定めていたこと、前記甲第一〇号証の一の協定書は、特定休日として春秋各一日の組合大会を付加し、特定休日の日数を年間八日としたにとどまり、特定休日の性質を変更するような趣旨を含んだものではなかつたこと、が認められるから、特定休日においても、出勤を命じうるのが労働契約の趣旨であつたと解することができ、被控訴代理人の前記主張も理由がない。
さらに被控訴代理人は、昭和三六年の長期争議以降、特定休日の出勤については、その都度会社が組合に対し事前に文書又は口頭をもつて出勤要請を行ない、組合がこれに協力して出勤させるという形式をとる旨の約束があつた旨主張する。そして、成立に争いのない甲第三九号証(第一組合の組合長より会社あての昭和三六年一〇月九日付書面)によれば、「一、秋季特定休日について従来特定休日に於ける機械整備のため特別出勤者を会社より各職場に連絡があり出勤していたが、今回合同職場委員会及び直別の職場集会などで、休日出勤は厳に廃止するとの決定をみております然し組合執行部としても出来るだけ生産に協力するため必要があればこれを認めたくついては機械整備に必要な人員と職場名を早急に連絡して戴くよう右御通知致します」との記載があること、原審証人黒田正明(第二回)の証言によつて成立を認めうる甲第三二号証(昭和三六年一二月三〇日付の第一組合の「情報」と題するビラ)には、「正月(特定休日)の出勤について会社から要請があつたので組合も充分協力することを約した」との記載ならびに正月の特定休日に出勤すべき部署と人員数の記載があることが認められる。しかし、当審証人星川正延の証言によつて成立を認めうる乙第五九号証、第六〇号証、当審証人星川武久(第二回)の証言によつて成立を認め得る乙第六一号証、原審および当審証人星川武久、同篠原宏、当審証人星川茂行、同鈴木典夫の各証言によると、甲第三九号証は第一組合からの一方的な申入にとどまつたもので、会社としては特定休日においても組合の同意ないし協力を要せずに出勤を命じ得るとの立場をとり、従前どおりの方式で個々の従業員に出勤を命じていたこと、ただ組合からの要望に基づき、出勤を命じた部署、人員、氏名などを知らせたことがあること、なおこの取扱は第二組合に対しても同様であつたこと、以上の事実を認めることができる(従つて、前記甲第三二号証の「会社からの要請」というのも、第一組合の一方的な判断にすぎないと認められる)。すると、被控訴代理人主張のような約束ないし慣行が成立していたものではないことが明らかである。
また、前出乙第四号証、当審証人篠原宏、同井川康、同星川茂行、同黒田正明、同大西英司、同井原巧、同松本良孝の各証言によると、一般の出勤日の欠勤は勤続手当その他の諸手当の額や夏季冬季一時金の査定に影響するが、特定休日の欠勤は右の関係では欠勤扱いとされなかつたこと、特定休日に出勤しても予定された作業が終ればそのまま帰宅することが黙認されていたこと、特定休日には然るべき理由があれば出勤を免除され、あるいは交替してくれる者がおれば、その者に対し出勤が命ぜられていたこと、がそれぞれ認められる。しかし、だからといつて、現実に発せられる出勤命令が単なる出勤の要請であり、業務上の命令でないことになるものではない。
以上の検討によれば、昭和三七年八月一六日の特定休日に出勤義務がなかつたとの被控訴代理人の主張は理由がない。被控訴人山本の行為は就業規則第八一条の「左の各号の一に該当する場合は反則の程度軽重により譴責、出勤停止、昇給停止又は減給に処する。、、、五、正当な理由なく、、、休日勤務に応じないとき」に該当し、職場規律違反を構成することは明らかである。
(二) 次に被控訴代理人は、テニス観戦の件につき、被控訴人山本がテニスを観ていた当時は形式的には勤務時間であるが実質的には待機時間であつた旨主張するので、この点につき判断する。
原審および当審証人星川武久、同松本良孝、同篠原宏、同大西英司、同井原巧、原審証人檜垣幸美(第一、二回)、同山本義夫の各証言、原審および当審における被控訴本人山本の尋問結果ならびに当事者の主張の一致する点を綜合すると、当時の川之江工場の電気係従業員は、普通勤務者と交替勤務者の二種類に分かれていたこと、前者は昼間の勤務のみで(昼専、常昼者とも称せられた)、その勤務時間は午前七時より午後四時三〇分まで、休憩時間は午前九時より二〇分間、午前一一時三〇分より五〇分間、午後二時より二〇分間で、実働八時間、休憩一時間三〇分であつたこと、交替勤務者は昼勤と夜勤とに分かれ、昼勤者の勤務時間は午前七時より午後六時まで、休憩時間は午前一一時三〇分より五〇分間、午後二時より一〇分間で、労働時間八時間、残業時間二時間、休憩時間一時間であつたこと、夜勤者の勤務時間は午後六時より翌日午前七時まで、休憩時間は午後一〇時三〇分より五〇分間、午前二時より一〇分間で、労働時間八時間、残業時間四時間、休憩時間一時間であつたこと、従つて、午前七時より午後四時三〇分までは、普通勤務者(昼専)と交替勤務者の昼勤者との勤務時間が重なること、電気係の従業員の仕事の内容は、工場内の電気関係の諸施設の補修、改造、新設等の現場作業と、変電所における計器類の監視、管理、計器の示す諸電力量の記録とに二大別されるが、変電所における仕事は主として主任(昼専者)がこれにあたり、午後四時三〇分以降は交替勤務者の昼勤者がこれを引継ぎ、午後六時以降は更に夜勤者がこれを引継ぐこと、電気関係諸施設の補修、改造、新設等の作業は、午後四時三〇分までは普通勤務者と交替勤務者の昼勤者とが共同で行ない、午後四時三〇分以降は、格別の作業がない限り交替勤務者の昼勤者も変電所へ引きあげ、変電所における計器盤の監視等の勤務に服すべきものとされていたこと、なお、現場において緊急又は困難な工事が生じた際は、主任その他変電所勤務者も現場にかけつけるので、変電所が二時間や三時間留守になるようなこともあつたこと、被控訴人山本および相勤務者大西英司は、当日交替勤務者の昼勤者として勤務に服していたこと、以上の事実を認めることができる。そうだとすると、被控訴人山本は当日午後六時まで変電所において計器類の監視等に服すべき義務があつたことは明瞭であつて、待機時間なるものを認めるべき法律上の根拠は全くない。また、右各疎明資料によると、以前交替勤務者の昼勤者中に午後四時三〇分より午後六時までの間に、小さい物を洗つたり、キヤツチボールをしたりする者がないではなかつたことが認められるが、会社側においてかかる行為を黙認していたものと認めるに足る資料はない。
そうだとすると、昭和三七年九月二八日午後五時過頃におけるテニスプレーの観戦が待機時間中であつたとの被控訴代理人の主張は理由がない。被控訴人山本の行為は就業規則第八一条の第一四号「就業時間中、、、、許可なく自己の職場を離れ、、、たとき」に該当し、職場規律違反を構成することは明らかである。
(三) また被控訴代理人は、夜勤の際の横臥睡眠の件に関し、夜勤中交替で身体を横にして休むことは他の職場でも事実上行なわれていたことであつて、本件のごときは職場秩序を紊したというに値しない旨主張する。そして原審および当審証人檜垣幸美、原審証人山本義夫、当審証人渡辺美典、同大西英司、同黒田正明、同西原幸夫の各証言、原審における被控訴本人山本の尋問結果を綜合すると、従業員が夜勤時交替で仮眠をとることは、他の職場でもないことではなかつたと認められる。しかし、そのような行為を会社側において黙認していたと認めるに足りる資料はなく、むしろ、前記各疎明資料および弁論の全趣旨によれば、従業員は公然とは許されないことを認識しつつ事実上仮眠をとつていたにすぎないことが認められるから、被控訴代理人の前記主張は理由がない。被控訴人山本の行為は、就業規則第八一条の第一四号「就業時間中、、、、許可なく横臥し、若しくは睡眠したとき」に該当し、職場規律違反を構成することは明らかである。
四 (一) ところで、控訴人は、被控訴人山本の行為は就業規則上の懲戒解雇事由に該当する旨主張するので、この点について判断する。
控訴会社の就業規則第八二条第一九号(甲第一号証の解雇通知書の第十九項とあるのは第十九号を指すと認められる)によれば、「左の各号の一に該当する場合は懲戒解雇にする。、、、十九、訓戒、懲戒数回に及ぶも、なお改悛の見込なき者。」と規定されている。そして、さきにみたように、被控訴人山本は特定休日出勤拒否の件で減給なる懲戒処分に付せられており、テニス観戦の件で工場長が被控訴人山本を呼出し注意をすると共に、始末書の提出を命じたのは、就業規則に定める懲戒処分としての譴責に該当するものと認められる(もつとも、就業規則第八〇条第二項第一号には、「譴責始末書を取り将来を戒める」とあるのに、被控訴人山本は結局において始末書を提出していないのであるが、始末書の提出命令なる処分は、事柄の性質上強制的実現をはかり得ない処分であるから、被処分者が始末書を提出しなくとも譴責処分の存在を妨げないと解する)から、同被控訴人は過去二回にわたり懲戒処分を受けたことになる。
この点につき控訴代理人は、会社側が被控訴人山本を呼出し始末書の提出を促すと共に、当該規律違反行為について再度反省を求めた行為をも訓戒に該当するものと主張する。なるほど訓戒なるものは、会社側より行なう事実上の注意を意味し、懲戒処分としての譴責に至らない程度のものを指すであろうけれど、控訴代理人主張のような行為は訓戒に該当しないと解する。けだし、もし右のような行為が訓戒に該当するとすれば、一回の職場規律違反行為について何回でも訓戒が成立することになるばかりでなく、就業規則の「訓戒、懲戒数回に及ぶ」という文言にもそぐわず(懲戒は一回の職場規律違反行為について一回成立するものと解せられる)妥当でないであろう。思うに、訓戒といい、譴責あるいは始末書の提出命令というも、そのこと自体が目的ではなく、あくまでも職場規律の保持という目的を達せんがための手段にほかならないから、始末書の提出を拒否した行為と職場規律違反行為とは区別されるべきであり、安易に両者を同一視すべきものではないと考えられる。そればかりではなく、始末書(本件で提出を求められている始末書が単なる事実のてん末書でなく、自己の誤りを陳謝し、ふたたび同様な職場規律違反を犯さないことを確約する趣旨のものであることは、乙第四号証、原審証人篠原宏の証言によつて成立を認めうる乙第六号証の一、二、四ないし一一および弁論の全趣旨によつて明らかである)の提出自体、本人の意思に基づくほかない行為であつて、個人の意思の自由を尊重する現行法の精神からいつて、始末書の提出をあくまでも強行することとなるような解釈は妥当ではない。そうだとすると、本規定にいわゆる訓戒とは、本来の職場規律違反行為についての注意を指すもので、一度の規律違反行為について一回のみ成立するもの(始末書の不提出は事案に応じ一の情状として考慮すれば足るもの)と解するのが相当である。すると、本件事案においては、訓戒は存在せず、懲戒処分のみ二回存したということとなる。
ただしかし、右規定の「訓戒、懲戒数回に及ぶ」の「数回」とは二回以上を指し、また懲戒のみ二回以上の場合をも含むと解されるから、被控訴人山本の行為は一応右に該当する。問題は「なお改悛の見込なき者」に該当するかどうかであるといわなくてはならない。
そこで、右の「改悛の見込なき者」の意味であるが、懲戒解雇が他の懲戒処分と異なり労働者に反省の機会を与えず最終的に企業外に放逐する重大な処分であること、懲戒なるものは一般に企業秩序の維持と生産性の向上という目的を達するためにのみ認められる制度であることを考慮すれば、右文言は唯単に改悛の情を表明しない者という意味ではなくして、実際に改悛の情がなく、または、職場規律に服する意思がないため、将来同様の職場規律違反行為を繰りかえす虞れがあり、企業秩序の維持と生産性の向上のために、企業内より排除するもやむを得ない程度の情状の存する者を指すと解するのが相当である。そして、具体的事案において、当該労働者が右要件に該当するかどうかの判断に際しては、職場規律違反行為の動機、態様、各行為の類似性の有無、本人の平素の勤務状況等を全体的、綜合的に観察すべきものと考えられる。
そこでまず、特定休日出勤拒否の件について考えるに、この件については被控訴人山本は減給なる懲戒処分を受けており、ほかに副主任解任なる不利益を受けているから、この行為自体をふたたび懲戒の対象とすることの許されないことは勿論である。ただ前記説示に従い、改悛の見込の有無との関連において行為の動機、態様などについて検討するに、被控訴人山本の出勤拒否が正当な事由に基づくものでなく、職場規律の違反行為であることは、前記のとおり明瞭であるが、ただしかし、前記甲第三九号証、第三二号証、原審および当審証人檜垣幸美、同黒田正明、同井原巧、原審証人山本義夫の各証言、原審および当審における被控訴人山本の尋問結果および弁論の全趣旨を綜合すると、第一組合としては、昭和三六年一〇月頃職場における討議を通じて、特定休日においては全員が一斉に休むのが本則であるから会社からの出勤命令に直ちに従うべきではなく、会社からの出勤の要請に対して組合が協力するという形をとつた上で出勤すべきであるという方針をうち出し、一方的な申入ではあつたが会社に対し甲第三九号証の書面を送付していたこと、このため被控訴人山本は、特定休日の出勤は組合を通して出勤の要請がなされるべきであるとし、前示のような態度に出たものであることを窺うに充分である。
次に、テニス観戦の件について考えるに、被控訴人山本の待機時間なる主張が失当であることはいうまでもないが、ただ午後四時三〇分以降六時までは、その日一日共同で作業をした昼専者が帰宅し、自分達交替勤務者も変電所へ引きあげ、夜勤者の出勤を待つという時間帯であるので、実際上一種の解放感を覚えるであろうことを推認するに難くなく、現場作業の中途における職場離脱などに比較すれば情は軽いと認められる。変電所に勤務する以上計器類を常時監視していなければならないことはいうまでもないが、変電所勤務者が一人でその者が便所へ行く場合などは当然監視者が欠けるわけであつて、実際問題として、瞬時もなおざりにしない監視は到底不可能な状況にあつたと認められる。これらの点を考慮すれば、数分間のテニス観戦をもつて悪質重大な職場規律の違反であるとは到底解し難い。
しかるところ、被控訴人山本は、前二件について懲戒処分を受けておりながら、更に夜勤中横臥睡眠するという職場規律違反行為を犯したものであり、この行為が本件解雇処分の直接の機縁となつたものである。しかしながら、一般的にいつて、夜を徹しての勤務は、どうしても疲労、眠気を伴なうものであり、前記疎明資料によると、被控訴人山本は、当日午前二時からの一〇分間の休憩時間中に暫時身体を休める目的で木の長椅子に横になり、次第に眠気を催おし、当夜は相勤務者がいなかつたところから、思わず午前四時頃まで寝こんだものと推認される。従つて、最後の横臥睡眠の件は、いわば、不注意による職場規律違反とでも目すべきものであつて、前二回の件とは行為の性質、態様を異にしているから、「改悛の見込」がないとする決定的な根拠とするには足りない。
更に、被控訴人山本が始末書の提出を拒否し、再三にわたる会社側よりの督促にもかかわらず提出を肯んじなかつたこと、上司に対する同被控訴人の態度にいささか礼を失する点のあつたことは、前に認定したとおりである。しかしながら、一般に、始末書を提出しないからといつて、常に必らず労働者が自己の誤りを自覚していないことになるものではなく、また将来同様の誤りを繰りかえす虞れがあることになるものでもない。本件においても、被控訴本人山本の原審および当審における尋問結果とさきに認定した諸事情に照らすと、被控訴人山本が特定休日出勤拒否の件について始末書の提出を拒否したのは、第一組合が特定休日出勤問題について前述のような方針(会社側からの出勤要請に組合が協力するという形をとつた上で出勤する)をうち出していたためであり、テニス観戦の件について提出を拒否したのは、始末書を提出しなければならぬ程重大な職場規律違反ではないと考えたためであると認められる。そして、特定休日出勤拒否は、一応組合の方針に従つた行為ではあつたが、弁論の全趣旨によると、ほかの第一組合員は同様な行動に出ていないと認められるので、被控訴人山本が将来同様な業務命令違反の行動に出る虞れがあるものとは認めがたく、また、テニス観戦の件についても、本件訴訟での主張はともかく、将来たやすく同様なテニス観戦行為に出る虞れがあるものとも認められない。夜勤中の横臥睡眠の件についても同様である。
思うに、本件の弁論の全趣旨ならびに原審および当審証人星川正延、同井川康の各証言によれば、被控訴人山本が会社側からの再三再四の命令ないしは督促にもかかわらず頑固に始末書の提出を拒否した点は、本件の処分に極めて重要な影響を与えているものと認められる。しかし、労働者と使用者が平等、対等な立場において労務の供給と賃金の支払を約する近代的雇傭契約のもとにおいては、労働者が始末書(自己の非を陳謝し、将来同様な職場規律違反を犯さない旨確約する趣旨のもの)の提出を拒んだからといつて、それを企業秩序に対する重大な紊乱行為であるかのごとくにみることは当を得ないであろう。
してみれば、被控訴人山本が始末書の提出を拒否し、また、上司に対しいささか礼を失する態度をとつたからといつて、そのことから直ちに、同被控訴人が就業規則上の「改悛の見込がない者」に該当すると認めることはできない。
被控訴人山本は、右に述べた三件の職場規律違反行為のほかに、組合ビラの配布その他の職場規律違反行為を犯しており、これは前に認定したとおりである。しかし、それらの行為は、解雇通告書に記載されず、訓戒、懲戒にも付されていない行為であつて、控訴会社において従前重視しておらなかつた事実であると推認されるばかりでなく、実際上も悪質重大な非行であるとは認められない。
翻つて、被控訴人山本の勤務状況についてみるに、原審および当審証人松本良孝、同星川武久、同井川康、同森実幸男、原審証人篠原宏、同大西英司、同山本義夫、原審および当審における被控訴本人山本の尋問結果を綜合すると、被控訴人山本は昭和三二年頃電気事業主任技術者の第二種免許をとり(昭和三六年当時電気係一二名中右免許を有していたのは同被控訴人のみであつた)、若くして副主任を命ぜられる等勤務成績は優秀であつたこと、昭和三六年の長期争議以後会社が第一組合員を不当に差別するとして上司に対し協調性を欠くと思われるような態度をとるようになり、昭和三七年九月前記のような経過から副主任を解任せられるに至つたが、仕事そのものには間違いがなく、すぐれた技術を持つ工員であつたことを一応認めることができ、前示各疎明方法中、右認定に反する部分は信用できない。
以上検討してきたところを綜合するに、被控訴人山本は、いまだもつて「改悛の見込がない者」と認めるには足らず、従つて、控訴会社の就業規則第八二条第一九号にいわゆる「訓戒、懲戒数回に及ぶもなお改悛の見込なき者」には該当しないといわなければならない。
(二) 次に控訴代理人は、かりに被控訴人山本が就業規則第八二条第一九号に該当しないとしても、同条第四号の「業務上の指示命令に不当に反抗し職場の秩序をみだした者」には該当すると主張するので、この主張について判断する。
控訴代理人は、テニス観戦による業務放棄や横臥睡眠による業務放棄も業務上の指示命令違反に該当する旨主張するが、右の各場合は、業務上の指示命令は出されていないとみるべきである。控訴代理人は、「業務上の指示命令」とは従業員が企業主体に対して負つている服従義務の内容を具体化するもの全部を指し、就業規則上の一般的命令、指示、達示等一切を含む旨主張するけれども、業務上の指示命令とは、その形式はともかく、通常就業規則その他に基づき具体的事項につき業務上特に具体的に作為不作為を命ずるものを指称すると解するところ、本件においては、この点につき特に具体的に一般的命令、指示、達示の類が出されていたことを認めるべき疎明はない。控訴代理人の主張は、就業規則違反は即業務上の指示命令違反を構成するという趣旨のように受けとれるけれども、そうだとすれば、就業規則第八二条各号違反はすべてこれ業務上の指示命令違反となるわけであつて、第四号においてことさらに「業務上の指示命令に不当に反抗し」云々と書きわけた意味がないこととなろう。控訴代理人の解釈は文理に反するのみならず実質的根拠も乏しく採用できない。
また控訴代理人は、始末書の提出命令も業務上の指示命令に該当する旨主張する。しかし、始末書の提出命令は、懲戒処分を実施するために発せられる命令であつて、労働者が雇傭契約に基づき使用者の指揮監督に従い労務を提供する場において発せられる命令ではないのである。一般に、就業規則の懲戒規定なるものは、労働者が使用者の指揮命令に従い労務を提供する場における秩序違反行為について規定するのが本則であると解せられるばかりでなく、近代的雇傭契約のもとでは労働者の義務は労務提供義務に尽き、労働者は何ら使用者から身分的、人格的支配を受けるものではないこと、現在の法制度のもとでは個人の意思の自由は最大限に尊重せられるべきであり、始末書の提出の強制は右の法理念に反することを考慮すれば、始末書の提出命令は業務上の指示命令(懲戒処分を発動する要件となるべき業務上の指示命令)に該当しないものと解するのが相当である。
また控訴代理人は、被控訴人山本は業務上の指示命令に「不当に反抗した者」であるとし、その「反抗」とは、直接指示命令自体に積極的に反抗するだけではなく、正当な理由なく指示命令に従わないことや、就業規則違反行為の後上司より訓戒を受けた際これに反抗的態度に出た場合を含む旨主張する。しかし、正当な理由なく指示命令に従わないことは、単純に当該業務命令違反を構成し、「反抗」には該当しないと解釈するのが文言上自然であるばかりでなく、就業規則第八二条第四号がことさらに懲戒解雇の要件として「反抗」を規定した点よりみれば、単純な不作為を超える何らかの積極的作為を指しているものと解するほかはない。また「業務上の指示命令に不当に反抗し職場の秩序をみだした者」と規定している以上、その反抗は、業務上の指示命令が下されたその機会において行なわれることが必要であると解せられる。控訴人のいう訓戒の席での「反抗的態度」の意味が問題であるが、訓戒に対して反省の意を表明しなかつたからといつて、「不当に反抗」したことになるものではないと解する。
これを本件についてみると、業務上の指示命令として認めるべきものは、特定休日の出勤命令のみであり、その出勤命令に対して控訴人が反抗したと認めるべき疎明はなく、むしろ同被控訴人は単純に業務命令に従わなかつたにとどまる。爾後において同被控訴人が特定休日出勤拒否の件について注意を受け、始末書の提出を命ぜられた経過、その際の同被控訴人の態度等については、すでに認定したとおりであるが、同被控訴人の行動はとうてい「反抗」に該当するものと解することはできない。
以上の検討によれば、被控訴人山本は、就業規則第八二条第四号の「業務上の指示命令に不当に反抗し職場の秩序をみだした者」にも該当しないことが明らかである。
(三) 更に控訴代理人は、被控訴人山本は就業規則第八二条第二一号の「その他前各号に準ずる行為のあつた者」に該当する旨主張する。右規定の趣旨は、第八二条第一号ないし二〇号には明確に該当しないが、それらの号に規定された行為に準ずる程度の悪質重大な非行があつた者を指すものと解されるが、被控訴人の行為、情状についてはすでに認定したとおりであつて、右のような者に該当するとは認められない。
(四) 以上の検討によると、被控訴人山本の行為は就業規則上の懲戒解雇事由のいずれにも該当しない。控訴会社は懲戒解雇に付すべき事由がないのにこれありとして、解雇の意思表示をしたものといわなければならない。
五 そうすると、本件解雇の意思表示は、被控訴代理人のその余の主張について判断するまでもなく、無効である。従つて、被控訴人山本は、現在なお、控訴会社の従業員たる地位を有し、賃金の支払を求める権利を有するといわなければならない。もつとも、同被控訴人は、解雇通告以後、控訴会社で就労していないが、これは控訴会社が労務の受領を拒絶しているためにほかならないから、賃金請求権を失わないものというべく、その賃金の額は、一応解雇通告時の額である金二万〇、四〇七円と認めるのが相当である。
六 そこで次に、仮処分の必要性について検討する。被控訴本人山本の原審における尋問結果によつて成立を認めうる甲第一八号証、被控訴本人山本の原審および当審における尋問結果および弁論の全趣旨によると、被控訴人山本は、本件解雇通告当時格別の資産を有せず控訴会社より受ける賃金により生活をしていたこと、本件解雇通告以降控訴会社は賃金の支払を拒んでいること(原仮処分命令の履行として給付したものは別である)、現在同被控訴人の家族は妻と子供二人であるが、妻は控訴会社に勤め、月金二万八、〇〇〇円から三万円程度の給料を得ていること、同被控訴人は解雇通告後である昭和四一年九月頃第一組合の書記長に選任せられ、専ら組合の仕事に従事し、若干の収入があること、以上の事実を一応認めることができる。右事実関係によれば、同被控訴人が控訴会社より従業員として遇せられず、賃金を支払われないことは、著しい損害であるといわなければならないから、仮処分の必要性はこれを肯定しなければならない。
七 以上の次第であるから、被控訴人山本が控訴会社の従業員たる地位を有することを仮に定めると共に、解雇通告の日である昭和三八年三月一一日以降月金二万〇、四〇七円の割合による金員の仮払を求める本件仮処分申請は、すべて理由があり、認容されるべきである。これと結論を同じくする原判決は相当であり、控訴人の被控訴人山本を相手方とする控訴は理由がない。
八 被控訴人山本の附帯控訴について。
成立に争いのない甲第一一六ないし第一三五号証、乙第五二号証および弁論の全趣旨によると、被控訴人山本の所属する第一組合は、その組合員の賃金の賃上および各年の夏季一時金、年末一時金について控訴会社と交渉を行ない、別紙賃金表(一)の「賃上、一時金妥結日及び金額」欄記載の各年月に、同欄記載の各金額で協定を締結し、その協定を書面にし、組合代表者および会社代表者が記名捺印していることが認められ、右協定は労働協約であると解することができる。しかしながら、右各書証、原審および当審証人井原康の証言および弁論の全趣旨によると、右協定にかかる金額はあくまでも組合員一人あたりの金額であつて、これに組合員の数を乗じたものが支給源資となり(昭和四〇年四月いわゆる源資一本制が採用せられてからは、一人あたりの金額に全従業員数をかけたものが支給源資とされた)、その支給源資の範囲内で各人に対する具体的な配分が決定されるのであること、すなわち、賃金については、全員について一律に賃上される部分(たとえば、年度により五〇パーセントとか四五パーセント)のほか、基本給にスライドする部分(たとえば二〇パーセントとか三〇パーセント)、成績による査定分(たとえば二〇パーセントとか一五パーセント)、調整分(最低賃金その他凸凹調整によるもの。たとえば一〇パーセントとか五パーセント)等があり、協定にかかる一人あたりの金額がただちに各人の賃金の値上額となるのではないこと、一時金についても、一律分(たとえば四〇パーセントとか三五パーセント)、基本給にスライドする部分(三〇パーセントとか四〇パーセント)、能率による査定分(たとえば二〇パーセントとか二三パーセント)、出勤率に応ずる分(たとえば一〇パーセントとか五パーセント)等があり、事情は賃金の場合と大体同様であること、を一応認めることができるのである。被控訴人山本は、従前の自己の賃金額に協定ごとの平均賃上額を順次加算し、これを自己の賃金の額であると主張し、一時金については、各協定時における一人あたりの金額をもつて自己の一時金の額であると主張し、別紙賃金表(一)のとおり請求するのであるけれども、控訴会社における賃金、一時金決定事情に照らせば、解雇通告以後における被控訴人山本の賃金および一時金の金額は、未だこれを確定することができないというほかはない。
そればかりでなく、解雇通告以後における被控訴人山本の賃金の昇給分および一時金については、その仮払の必要性についての疎明も充分でない。むしろ、さきに認定した被控訴人山本の生活状況のほか、本件附帯控訴が当控訴審の最終口頭弁論期日たる昭和四五年一月一九日の申立にかかり、解雇通告時より七年近く経過している点を斟酌すれば、被控訴人山本は現在において一応安定した生活状態にあるものと推認するのが相当であり、本件附帯控訴にかかる賃金昇給分および一時金については、仮払の必要性を認めることができない。
してみると、被控訴人山本の本件附帯控訴は理由がない。
第三被控訴人高橋関係について。
一 成立に争いのない甲第一三号証の一、二、乙第一八号証、当審証人篠原宏の証言により成立を認めうる乙第三二号証、当審証人高橋厚美、同星川律義、同西原幸夫、同星川武久(第一回)、同星川茂行、同星川正延の各証言、被控訴本人高橋の原審および当審における尋問結果を綜合すると、次のとおり一応認めることができる。
被控訴人高橋は控訴会社金生工場に原木係として勤務していたものであつて、昭和三一年頃から第一組合(当時は第二組合はなかつた)に所属していたものである。
昭和三六年四月二一日組合は無期限ストライキに突入し、金生工場、川之江工場の操業が停止するにいたつたが、会社側は同年五月二三日ロツクアウトを宣言し、非組合員の手で川之江工場の一部の操業を開始したほか、七月一七日頃には第二組合が結成され、金生工場の一部でも操業が開始された。これに対し、第一組合は各工場の周囲にピケを張り、従業員の出入や製品の搬出を阻止したので、会社側(当時紙業会館内に仮事務所を設けていた)は工場内に籠城して生産に従事する従業員のためセスナ機で食糧を投下したり、製品の搬出入妨害禁止の仮処分を申請したりした。
しかるところ、同年八月初めごろ、金生工場内において生産に従事していた宝田豊春(第二組合書記長)が精神異常を来たしたので、会社側は同人を病院に入院させることとし、八月五日、同人を工場外に出すことについて第一組合の闘争本部(当時労働会館内にあつた)の了解を求めたところ、病人の引取はやむを得ないことであるから了承する、との返事を得たので、同日午後九時頃山林課長高橋厚美が輸送課長星川律義の運転する乗用車(星川課長は乗用車の運転手をかねていた)で、医師と共に金生工場正門前へ赴いたところ、連絡が不十分でピケ隊は内部へ入ることを認めないので、再び闘争本部へ行き、書記長の上田幾喜外三名をのせて金生工場正門前へ引返した。ピケ隊は医師を入構させたが、高橋課長の入構を認めず、やにわに約三〇名の者が「やつてしまえ」などと叫んで同課長をとりかこみ、その周囲をぐるぐると巻きながら、こずいたり足で蹴つたり体当りした上、工場前にある幅約一メートル五〇センチ、川の深さ約一メートル二〇センチ、水の深さ約五〇センチの川の中へ突き落し、同人が道の上へ上るとふたたび同人をとりかこみ、前と同様な暴行を加えて川の中へ突き落し、同課長は約三〇分間川の中に止ることを余儀なくされた。当時被控訴人高橋はピケ隊員の中にいたが、何かわめきながら高橋課長に向つて小石を投げつけ、同人の左のこめかみに命中させて出血させ、且つ治癒までに二週間を要する瘤をこしらえさせたばかりでなく、「自動車を川の中へ引つぱりこんでやらんか」と言つて数人の者を呼寄せ、前記星川律義輸送課長が乗つている自動車をとりかこみ、各人に号令をかけ、自動車を引き摺つた(内部ではサイドブレーキをかけていた)り、数回にわたり自動車を斜に持ちあげて急に落したり、「律義の頭を冷してやる」と言つて、バケツで自動車の上から水をかけたりした。星川課長は、自動車内部で転倒し、内壁のかけがねで右の耳を傷つけた。
被控訴人高橋は、右の高橋厚美に対する暴行および星川律義に対する暴力行為の罪により刑事裁判に付せられ、昭和三七年一二月三日松山地方裁判所西条支部において罰金四千円に処せられ、この裁判は控訴の申立なく確定した。
以上のとおり一応認めることができ、成立に争のない甲第一三号証の二および被控訴本人高橋の原審および当審における尋問結果中、右認定に反する部分は信用できず、ほかに右認定を左右するに足る疎明はない。
二 しかるところ、被控訴代理人は、当時高橋厚美山林課長は職制の先頭に立つて家庭訪問をするなどして第一組合の切崩しを行なつていたので、組合員らが同課長に対し反感を抱くのも無理からぬところであつた旨主張する。同課長がその頃第一組合員であつた森某方を訪問したことのあることは当審証人高橋厚美の証言によつても明らかであるが、その際被控訴人主張のような切崩しを行なつたとの点については、疎明が充分でない。当審証人黒田正明の証言、原審における被控訴本人山本、同高橋の各尋問結果は、抽象的な伝聞供述の域を出るものではなく、当審証人高橋厚美の証言と対比して直ちに心証を得がたく、ほかに右の点を認めるに足る疎明はない。のみならず、前記の各疎明資料によると、当夜は高橋課長、星川課長が暴行を受けた(星川課長は別に前記上田幾喜よりも暴行を受けた)ばかりでなく、星川保監査役も右の者ら以上にはげしい暴行を受けていることが認め得られるのであつて、高橋課長がことさらに第一組合員の恨みをかつており、それゆえに本件の暴行となつたものとはたやすく認めることはできない。ことに前記乙第三二号証、当審証人高橋厚美の証言によると、被控訴人高橋は、暴行を受けて横たわつた星川保監査役に対し、「早くくたばつた。もろい奴だ」というような意味の暴言を吐いていることが認め得られるのであつて、高橋山林課長なるがゆえに、特別の感情を持ち、暴行に及んだものとは認められない。
また、被控訴代理人は、被控訴人高橋の行為は会社外における行為である旨主張する。その趣旨は少しく明瞭でないが、物理的な場所が会社外であるからといつて、その行為が企業秩序に関係がない行為になるものではなく、また暴行の場所が会社の敷地外であることは、直ちに情状を軽減すべき事由となるものではない。
争議中であつても、暴力の行使は厳に慎しむべきであるこというまでもないばかりでなく、前認定の事実関係によれば、被控訴人高橋の暴行は、積極的主動的なものと認められ、その情は決して軽くない。同被控訴人に対する刑事裁判の刑は、罰金四千円であり、刑事事件としては必らずしも重い刑ではないが、しかし、刑事裁判における刑の軽重はただちに経営秩序に対する違反の度合を示すものではない。
三 控訴会社の就業規則第八二条第二〇号は「刑法その他の法令に規定する犯罪に該当する行為のあつた者」と規定するが、就業規則の本旨よりみて、その趣旨は、形式上刑法その他の法令に規定する犯罪に該当する行為があつたにとどまらず、実質上企業秩序の維持と生産性の向上のために企業内より排除するもやむを得ない程度の悪質重大な情状の存する者を指すと解せられるが、前記認定の事実関係よりみて、被控訴人高橋は右規定に該当するものと解せられる。
四 しかるところ、被控訴代理人は、本件解雇処分は、実は被控訴人高橋が第一組合の組合員であることまたは組合の正当な活動をしたことの故をもつて、なされたものであり、更にまた、組合の運営に対する支配介入としてなされたものであるから無効である旨主張するので、この主張について更に判断することとする。
被控訴代理人は、今回の処分は従前の処分に比して不合理且つ苛酷であり、あるいは第二組合員または非組合員に対する処分に比して均衡を失する旨主張する。原審証人篠原宏の証言によると、控訴会社では道路交通法違反で罰金刑を受けた者に対し、懲戒処分をしなかつた事例があることが認められるが、道路交通法違反は企業秩序外の領域における非行であつて、罰金刑を受けたとの一事をもつて本件と同一視することはできない。また、当審における被控訴本人山本、同岡田の各尋問結果によると、金棒で同僚を殴り罰金になつたのに、解雇にならなかつたという事例があるようであるが、その動機、情状等が充分明らかでないばかりでなく、事案そのものが私的な喧嘩のようであつて、直ちに本件と対比できる事例であるとは認められない。ほかに被控訴代理人の主張を支えるに足る疎明はない。
むしろ、本件処分の先例となるべき処分は、昭和三六年の争議当時第一組合の書記長であつた上田幾喜に対する処分であると考えられる(上田幾喜が懲戒解雇されたことは当事者間に争がない)。すなわち、成立に争いのない甲第六三号証、当審証人星川正延の証言により成立を認めうる乙第六〇号証、当審証人星川律義、原審証人篠原宏、原審および当審証人星川正延の各証言および弁論の全趣旨によると、さきにものべたように、上田幾喜は第一組合の書記長で、金生工場内で発病した宝田豊春を入院させる件につき、正門前でピケをはつている第一組合員を説得するため、闘争本部で星川律義輸送課長の運転する自動車に乗車し、高橋厚美山林課長と共に金生工場正門前に至つたものであるが、前記のように高橋課長がピケ隊から暴行を受けるに及んで、にわかに態度を変え、星川課長に対し、「あんたもピケ隊がもんでやると言つているから門の前まで来い」というような趣旨のことを言つて、同課長を車の運転席から外へ無理に引つぱり出そうとし、同課長を手で突くなどの暴行を加え、そのため刑事裁判に付され、昭和三六年一一月二五日伊予三島簡易裁判所において罰金三、〇〇〇円に処せられ、就業規則第八二条第二〇号(刑法その他の法令に規定する犯罪に該当する行為のあつた者)に該当として、昭和三七年九月一日付で懲戒解雇に処せられた事実を認めることができるのであつて、この処分と対比すれば、本件の処分は何ら均衡を失していないということができる。右上田幾喜に対する処分もまた不当労働行為であるという主張が成り立ち得るかどうかは別とし、少くとも本件処分が従前の処分に比して不合理且つ苛酷であり、または従前の処分に比して均衡を失しているという被控訴代理人の主張は理由がない。
また、被控訴代理人は、会社側は従前「情状酌量ということもあるし、会社としては本人の今後の作業態度をみる」と言つていたのに、被控訴人高橋らが第一組合を脱退しなかつたため、本件解雇処分に及んだのである旨主張する。しかし、前記甲第六三号証、原審および当審証人星川正延、原審証人黒田正明(第二、三回)、同篠原宏の各証言を綜合すると、第一組合と控訴会社は、昭和三七年九月三日前記上田幾喜の懲戒解雇の件で団体交渉をもつたが、交渉が済んで一同が立ちかけたとき、第一組合の黒田組合長が星川正延常務取締役に対し、「常務の私見でよいから高橋、岡田(本件各被控訴人)の処分の点について聞かせてもらいたい」と言つたところ、星川常務は、「現在裁判中であるので何ともいえない。今すぐ処分するということは考えていない」というような趣旨の発言をしたこと、被控訴人高橋、同岡田は常務の右の発言を黒田組合長から聞かされたことを認めることができる。星川常務の発言は、黒田組合長に対するものであるから、第一組合からの脱退を暗示するような語感を含んでいなかつたことは明瞭であると思われるし、また、上田幾喜に対する処分との関連からみても、当時会社として被控訴人高橋らを解雇しない旨決定していたとは到底考えられない。むしろ、一応処分を留保し、刑事裁判の結果を待つていたものと認めるのが自然である。そして本件処分は、刑事裁判が確定した後に行なわれているのであり、この関係は上田幾喜に対すると同様である。もつとも被控訴人高橋らに対する刑事判決の言渡の日が昭和三七年一二月三日であるのに、本件の解雇通告の日が昭和三八年三月九日であつて、その間若干の日時が経過しているが、当審証人森川正信、原審および当審証人星川正延の各証言を綜合すると、控訴会社では刑事判決の言渡があつたことおよびその結果を昭和三八年二月上旬に知つたこと、そして間もなく、星川常務、井川工場長、山下総務部長が懲罰会議をひらき、被控訴人高橋、同岡田に対する懲戒解雇を決定したことが認められる。そうすると、本件解雇に至る間の会社側の言動や処分の時期について格別不自然な点はないといわなければならない。更に、被控訴人高橋が本件解雇通告前会社に対し第一組合脱退の通知をしたことは当事者間争いがなく、成立に争いのない乙第一七号証および被控訴本人高橋の原審における尋問結果によれば、右通知の日は昭和三八年三月一日であつて、同僚五名と共同で、控訴会社の労務課あて書面で通知していることが認められる。また、被控訴本人高橋の原審および当審での尋問結果および弁論の全趣旨によれば、被控訴人高橋は、本件におけるピケ隊員としての行動を別とすれば、平素殆んど組合活動をしておらなかつたことが認められる。これらの事情を考え合わせると、被控訴人高橋が第一組合員であつたがゆえに、又は第一組合から脱退しなかつたがゆえに、本件解雇処分がなされた旨の被控訴代理人の主張は、たやすく肯定することができない。
被控訴代理人はまた、控訴会社の不当労働行為意思を推認させる事実があるとして、甚だ数多くの事実を主張している。しかし、問題は、本件解雇の主たる原因がいずれの点にあるかであつて、不当労働行為意思を決定的動機としてなされたのでない限り、本件処分は不当労働行為となるものではない。控訴会社が第一組合員一般に対して好感を抱かず、本件処分により第一組合員が更に減少すべきことを認識していたとしても、そのことから直ちに、本件解雇処分を不当労働行為と認め得るものではないのである。その意味において、やはり、解雇理由とされている被控訴人高橋の行為の態様、情状が重要であり、さきに認定したところに照らせば、被控訴人高橋は、解雇されてもやむを得ないと一般通念上考えられる程度の非行を犯しているものと判断されるから、本件解雇の主たる原因は一応右非行であると推認するのが相当である。本件における被控訴人側の主張と疎明によつては右推認を覆えすに足りないことに帰する。
以上の次第で、被控訴代理人の不当労働行為の主張は理由がない。
五 更に、被控訴代理人は、本件解雇処分は解雇権の濫用であつて無効である旨主張する。しかし、本件解雇が然るべき根拠を欠くものでないことは、右に判断したとおりである。被控訴人高橋の平素の勤務状況がとくに優秀であつたと認めるに足りる疎明はなく、その他解雇権の濫用を窺わせるような事実は全く認められない。
従つて被控訴代理人の右の主張も理由がない。
六 以上の次第であるから、被控訴人高橋に対する本件解雇は有効である。
そうすると、被控訴人高橋の本件仮処分申請は、被保全権利を欠くことになるから、必要性の点について判断するまでもなく、理由がなく、却下をまぬがれない。これと結論を異にする原判決は失当であり、控訴人の被控訴人高橋を相手方とする本件控訴は理由がある。
七 被控訴人高橋の本件附帯控訴が理由がないことは、右に述べたところよりして、自ら明らかである。
第四被控訴人岡田関係について。
一 成立に争いのない甲第一二号証、第一四号証、乙第一九号証の一、二、当審証人星川律義の証言、被控訴本人岡田の原審および当審における尋問結果ならびに弁論の全趣旨を綜合すれば、次のとおり一応認めることができる。
被控訴人岡田は、川之江工場抄紙課に所属し第六号抄紙機の現場に勤務していたものであり、昭和三六年四月ストライキが発生し、川之江工場従業員の大部分が組合(第一組合)に加入した際、組合員となつたものである。
同被控訴人は争議中ピケ要員として出動したりしていたが、昭和三六年八月八日午前九時三〇分頃川之江市金生町所在の丸住製紙社宅第二課(鉄筋アパート式住宅)の屋上へ赴いたところ、同所で、控訴会社の星川律義輸送課長の子供である星川仁(昭和二六年八月五日生。当時一〇才で小学四年生)が友達の井原洋二と共に附近の風景を写生していたので、右星川仁の写生を手伝つてやつたりしていたが、同人に対して家の所在や父の職業を尋ねるうち、同人が控訴会社の輸送課長星川律義の子供であることを知り、同人を屋上出入口附近へ連れこみ、その場にあつたござの上へ肩を押して坐らせ、素手で同人の背中、肩、腰、腹附近を十数回にわたつて殴打し、同人が泣声をあげると、「大きな声を出すな。出すと何んぼでも叩くぞ」と申し向け、最後には同人の書いた絵をとつて引き破り、「もういなしてやる」と言つてその場を去つた。同人は泣きながら家に帰り、家人の前でランニングシヤツを脱いで見せたところ、背中の右の方には殴られた跡がまだ赤く残つていた。
同被控訴人は右暴行の罪により刑事裁判に付せられ、昭和三七年一二月三日松山地方裁判所西条支部において罰金二千円に処せられ、この裁判は控訴の申立なく確定した。
以上のとおり一応認めることができ、被控訴本人岡田の原審および当審における尋問結果中右認定に反する部分は信用できず、他に右認定を左右するに足る疎明はない。
二 しかるところ、被控訴代理人は、被控訴人岡田の行為は刑事的にみて極めて軽微なものであり、企業秩序を紊したとか労使の信頼関係を破綻させたとかいうに値しない旨主張する。しかし、前にも述べたように、刑事犯罪としての軽重と企業秩序違反行為としての軽重とは必らずしも一致するものではない。また、同被控訴人の暴行の相手方は会社職員ではなくしてその子供であり、暴行の場所は会社構内でなくして社宅の屋上ではあるが、だからといつて、本件暴行が企業秩序と関連がないことになるものではない。むしろ、その父親が会社側の者であるという理由でその子供に暴力を揮う行為は、父親に対する暴行と同様に評価することができ、ひいては企業秩序の紊乱行為を構成することは明らかである。本事件は、純真な学童の心に終生消えない傷跡を残したというべきであつて、会社の職員自体に対する暴行より情はむしろ重いといわなければならない。もつとも、原審証人黒田正明(第一回)の証言の趣旨により成立を認めうる甲第一五号証、原審証人黒田正明(第一回)、同石川昇平、同石川祝、原審および当審証人井川康の各証言、被控訴本人岡田の原審および当審における尋問結果を綜合すると、同被控訴人は平常はむしろ温厚な性格のように見受けられる。しかし、本件のような事件については、何よりもまず、会社内の職員ないしその家族に与える一般的な影響が重視されるべきであり、本人が反省の意を表明するとか被害者が宥恕するとかの特段の事情がない限り、厳しく責任を問われるのもやむを得ないところである。
三 してみれば、被控訴人岡田は、就業規則第八二条第二〇号の「刑法その他の法令に規定する犯罪に該当する行為のあつた者」に該当するものといわなくてはならない。
四 しかるところ、被控訴代理人は、被控訴人岡田に対する解雇は不当労働行為であると主張し、その根拠として、望月副工場長の言動等を挙げているので、この点につき判断する。
原審証人黒田正明(第二回)の証言、被控訴本人岡田の原審および当審における尋問結果によると、被控訴人岡田が前記のような暴行を行なつて間がない昭和三六年八月一五日頃、川之江工場の望月副工場長が同被控訴人の許を訪れ、暴行の件が刑事事件になつているようだが事実そのようなことをやつたのか、と聞き、同被控訴人が否定すると、「自分も岡田君は信じている。もし仮にそのようなことをやつたとしても話合えば分ることだ」などと話した上、「ピケに行つてもお金にならんし、工場の中へ入つて仕事をしてはどうか」というような趣旨の話をしたこと(当時非組合員と第二組合員が籠城生産をしていた)、第一組合は、右望月副工場長の行為を不当労働行為であるとして地労委へ提訴したが、争議終結の際右申立を取下げたことを一応認めることができる。しかし、望月副工場長がことさらに会社側の意を受け刑事事件にかこつけ組合脱退を迫つたと認めるに足る疎明はなく、むしろ、その訪問の時期、刑事事件のその後の推移、上田幾喜に対する懲戒解雇処分の経過のほか、被控訴人岡田の原審および当審における尋問結果ならびに弁論の全趣旨を綜合すると、望月副工場長は、平素は温厚な被控訴人岡田に刑事問題がおきていると聞き、同人の身を心配してその家を訪れ、本人の利益のためになれかしとして、前記のような発言をしたものと認めることができる。なお、原審および当審証人篠原宏、同井川康、同星川正延の各証言を綜合すると、望月副工場長は労務、懲戒等についてとくに権限を有する者ではなく、本件懲戒処分の決定にも関与していないことが認められる。そうすると、望月副工場長の前記の言動は、いまだもつて本件解雇処分を不当労働行為と認定する根拠とするに足りるものではない。
その他、被控訴人高橋の項で、不当労働行為の主張に関し判断したところは、すべてここで援用することとする。
そうすると、被控訴人岡田が第一組合員であつたがゆえに、又は第一組合から脱退しなかつたがゆえに、本件解雇処分がなされた旨の被控訴代理人の主張は、たやすく肯定することができない。さきに判断したように、本件解雇処分は、一般通念上首肯するに足る解雇事由をそなえているものと認められ、被控訴人の主張と疎明によつては、右判断を覆して不当労働行為と認めるに足りない。
従つて、被控訴代理人の不当労働行為の主張は採用できない。
五 また被控訴代理人は、本件解雇処分は解雇権の濫用であつて無効である旨主張する。しかし、本件解雇が然るべき根拠を欠くものではないことは、右に判断したとおりである。被控訴人岡田の平素の勤務状況がとくに優秀であつたと認めるに足りる疎明はなく、その他解雇権の濫用を窺わせるような事実は全く認められない。
従つて、被控訴代理人の右の主張も理由がない。
六 以上の次第であるから、被控訴人岡田に対する本件解雇は有効である。
そうすると、被控訴人岡田の本件仮処分申請は、被保全権利を欠くことになるから、必要性の点について判断するまでもなく、理由がなく、却下をまぬがれない。これと結論を異にする原判決は失当であり、控訴人の被控訴人岡田を相手方とする本件控訴は理由がある。
七 被控訴人岡田の本件附帯控訴が理由がないことは、右に述べたところよりして、自ら明らかである。
第五結論
以上の理由により、原判決中、被控訴人高橋、同岡田の申請に関する部分を取消し、右被控訴人両名の本件仮処分申請を却下し、控訴人のその余の控訴(被控訴人山本を相手方とする控訴)を棄却し、附帯控訴人らの各附帯控訴を棄却し、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九条、第九三条、第九六条を適用し、主文のとおり判決する。
(裁判官 橘盛行 今中道信 藤原弘道)
(別紙省略)